とても優しい味

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とても優しい味

「それでは、宜しくお願い致します」  女性は玄関先で深々と頭を垂れる。そして顔を上げると、最後に母の杏子ではなく蛍へ向けて深紅の唇を微笑ませて去っていった。敷石を踏む後ろ姿が陽炎に溶けてゆき、じきに見えなくなる。 「母さん、あの女の人からまた貰ったの?」  木戸を閉める杏子に、蛍は玄関マットに置かれた四つ結びの風呂敷包みを指差した。紅桔梗のちりめんに釣鐘型の花を散らした正方形の包みには、恐らく蛍の予期しているものが入っていると思われたが、一応訊ねずにはいられなかった。 「ええ、そうね。早速戴きましょうか」  杏子は言葉を表面のまま受け取り、風呂敷包みを腕に抱える。あの女性が一体誰で、なぜ毎年自宅を訪れては洋菓子を持ってくるのだろう。蛍の疑問に気付いていないのか、はぐらかしているのか、杏子はそれ以上の質問は受け付けないといったふうに台所へ消える。  梅雨が明けて暑さが本格的になる頃に訪れるあの女性は、少なくとも蛍にとっては奇妙な訪問客だった。真夏だというのに黒の麦わら帽子と同色のノースリーブワンピースを身に纏い、決まって蛍の誕生日前に戸口を叩いて現れる。  盛んに鳴くアブラゼミの熱気とは違いひっそりとして、それこそ影のような女性は、玄関に甘い香りを漂わせて来る。それは包装された戴き物から漂うというより、あの女性に染みついた匂いそのものであるようだった。つまり、洋菓子は店で購入したのではなく、女性が自分で作ったのだということを悟らせる。 「まあ、綺麗だこと」  テーブルで風呂敷包みを解き、さらに化粧箱を開けた杏子は、二人分のムースケーキを取り出して歓声を上げた。ふんだんに盛りつけられた、風呂敷の色より青みの濃い鮮やかなブルーベリーが、おやつどきの胃を刺激する。  蛍は母に促される前に洋皿をテーブルに並べ、そこにムースケーキを載せた。ブルーベリーのひとつひとつが宝石のように目映く光を反射し、食べるのを躊躇させるほどだ。 「美味しいわね、本当に美味しいわ」  フォークを口に入れた杏子は目許を綻ばせ、いかにも幸福そうな顔つきをする。幼少の頃は笑顔が母によく似ていると近所の人や学校でも言われていたものだが、高校生となった今はどうだろうと蛍は思う。  杏子が二重幅の大きな丸目であるのに対し、蛍は切れ長の奥二重だ。顔回りだって杏子は体格と同じくふくよかだが、蛍は頬がすっきりとした痩身で似ても似つかない。何より、杏子には笑窪ができなかった。  蛍はふと女性が帽子の下で見せた微笑みを思い返す。もし、仮にそうだとしても、年齢的には近すぎる気がする。毎年訪れる割には顔をまともに見たことがないため、実際にはもっと歳がいっているとしてもだ。だからこそ、あの女性と離れたのか。離されたのか。  知る必要のない事実を心の中で否定し、ケーキを一口運ぶ。肉厚の果実が弾け甘酸っぱさが口内に広がると、自然と笑顔になるのだから不思議だ。たとえ顔つきが似ていなくても、笑顔は目の前の母と共有できる。とても優しい味に、少しだけ父とあの女性――叔母の故郷である海の風景が混じった。
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