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午後になると、車いすを借りて病棟を出て、エレベーターで階下に降りた。
マスクについては看護師からも大沼からもしつこく言われていたので、しっかりと身につけた。ステロイドの影響で、抵抗力が弱まっているという説明だった。
放射線科は一階にある。
タイヤを転がすだけでも腕が痛み、とても疲れた。受付で河合を呼び出すと、彼は姿を見せるなり、訝しげな顔で滝本を一瞥した。患者に名指しで呼び出されることなど、あまりないのだろう。
気にせず滝本は荏田に見せたのと同じポーズで、花の説明をした。
「ああ、なるほど、花っていうか、雑草ですよね。いや花に間違いないんですけど、分かりますよ、昼咲き月見草ですね」
「昼咲き月見草?」
その名前は初めて聞いた。それとも、かつてあの男から説明を受けただろうか。
「月見草って黄色いと思ってる人が多いけど、日本で月見草って言ったら本当はアレなんですよ。黄色いのは待宵草ってやつですね」
マツヨイグサという名も初めてだ。聞いたことがあるとすれば、いつだったか絢との旅行先で聞いた詩に出てくる、似たような名前だ。
「ヨイマチグサじゃねえのか。マツヨイグサ?」
「それは、竹久夢二ですね」
そこで他のスタッフに呼ばれ、彼は「すみません」といって去っていった。
滝本は、思い出していた。絢と千葉の犬吠埼を訪れたときに、旅館で手にした詩集が、竹久夢二のものだった。きっとあの男も、河合と同じように道ばたに咲いた月見草の説明をしてくれたのだ。彼岸花も同じだ。他にもいろいろな花の名を聞いた。
俺が忘れているだけなのだ。
滝本は何らかの辻褄が合ったような充足感と、より難解な宿題を出されたような妙な焦りを感じながら、疲弊した腕で車いすのハンドリムを握りしめ、病棟へ戻った。
一度思い出すと、思わぬ具合に記憶が溢れ出てくる。
かつて読んだその詩集にはこうあった。確か歌にもなっている有名な一節だ。
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬさうな
「タキモトくん、けっこうロマンチストだよね」
千葉からの帰り掛け、助手席に座る滝本に、絢はこう言った。滝本がその詩集を気に入り、ついに一冊購入したのを彼女は物珍しそうに見ていたが、よほど意外だったのだろう。
「そうかな。ちょっと気になっただけだよ」
「気になるってところがね。さすが元文学部。あたしには、無い感覚だわ」
絢が笑う。西陽を浴びた車内で二人、それはとても心地よい空間だった。
滝本は車イスからベッドに移り、ごろりと転がって天井を見上げた。
自分はきっと、あの男にも、絢の話をしたに違いない。惨めなほどに、何度も、何度も。
男は名を「石田」といった。もしも今、誰かが自分のそばにいるとして、それが石田であったなら、単純に一つの絵図として、それほどしっくりくることはないだろう。
目を閉じた。
瞼の裏で、いくつもの色彩が散らばって忙しい。
ヤマツツジの赤、プラタナスの緑、待宵草の黄色、月見草の仄かな桃色。そうして病院の西側にある沿道には、彼岸花たちが、不気味な様子で血の色を咲かせている。
滝本は、眠りに落ちた。
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