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八月が半ばを迎える頃、関はいつも母親へ連絡を入れる。
母は、県内にある実家に今も一人で暮らしており、関のアパートからは車で一時間もかからない距離だったが、会うのは年に数回程度だった。
最近は少し膝を悪くしたと電話で聞いたが、生活に変わりはないらしい。平日は町役場で非常勤の事務仕事をしている。
父親の命日は、八月三十日だ。
以前は、お盆と命日、それに秋のお彼岸と立て続けに帰っていたが、最近はお盆には帰らないことにしている。いつだったか親戚の誰かが「自殺した人間もお盆に帰って来るのだろうか」と言っていて、少し足が遠のいた。
今年も関は、二十日を過ぎた頃、実家に電話をした。
「三十日は、今年は土曜日だね。お母さん大丈夫?」
「うん、久々に会えるから楽しみ。トモは仕事、忙しくないの?」
「変わってないよ、まあ普通かな」
「そう。だったら金曜の夜に帰って来なさいよ、せっかくだしさ。何か食べに行こう」
多分そう言われると思っていた。
「分かった。お店はどこか選んでおいてね、私は何でもいいから。ウナギでもいいし」
「ウナギがいいんでしょ」
母は電話口の向こうで笑った。
墓石の前で手を合わせ、父と会話をしているときでも、もう母は涙を流さない。
「分かった、お店予約しておくから」
「お願いしまぁす。じゃあ二十九日に。オヤスミ」
それでも関の記憶の中で、あの頃、母はほとんど崩壊していたように思う。関よりもずっとずっと長く、そして深い闇の底にいた。関はその姿を、ただ、そばで見ていた。
朧気ながら、覚えている。
それは小学一年生だった関が、初めての夏休みを終えようとする日のことだ。関は男子に混ざって外を駆け回ってばかりいる活発な子で、まだ幼き七歳の「トモ」であった。
その日、トモは当時仲の良かった女の子の友達の家で遊んでいた。
電話が鳴ったのは、出されたケーキを食べ終えて子供部屋に戻ろうとしたときだった。その音に何気なく振り返ったトモを、友達の母親は手振りで呼んだ。
トモはその小さな手に受話器を手渡された。母からだった。
母はたった一言、絞り出すような声で「すぐに帰って来て」と言った。トモは言われるまま、走って帰った。
交差点を二つ渡るだけなのに、やたらと長く感じた家までの道。母に何があったのだろう。焦るばかりで自分の足の動きももどかしく、鼓動はずっと高鳴っていた。
家の中に駆け込むと、居間の中央で、母が背中を向けて床に座り込んでいた。
「お母さん」
気配で分かっていただろうが、振り向かない母にトモは言った。少し母の肩が震えたように見えて、それから顔だけを、トモのほうに向けた。
「あ、帰ってたの」
電話よりもさらに弱々しい声で、母は言った。
「お母さんが、早く帰ってきなさいって言ったんでしょ」
「そう……そうね。タクシー、呼んであるの。あなたは、うん、その格好でいいわね」
ブラウスとスカート姿のトモを見て、指で確認するような仕種をした。
「何? どこに行くの?」
「さっき、言わなかった? ……お父さん、車に轢かれたのよ」
トモは混乱した。
どういう意味だろう。お父さんは今、会社に行っている。夜になったら帰って来て、いつもの笑顔を私に見せてくれるはずだ。それが―― 。
「早く! 行かなきゃ!」
衝動か、トモは叫んでいた。とにかく、とにかく急がなければならないと思った。
「ううん……言ったでしょう? 救急車で運ばれたけど、お父さん、死んじゃったの」
関は今でも、このときの母の言葉を鮮明に覚えている。消え入りそうな声で、普段と同じ言葉遣いで、父親の死を隠そうとはしなかった。
ずっと後で気付いたことだが、この段階で母はすでに、一度病院へ行っていた。そこで父の死を知らされ、幼いトモのために再び家に戻ったのである。
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