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8-2
トモは母とともにタクシーに乗った。
母は車の中で一度だけ「お昼には何をご馳走になったの?」と聞いたきり、黙っていた。トモも返事などできなかった。お父さんが、死んだ。その意味を、ただ考えていた。
それからの記憶を、今でも関は妙に白々しく覚えている。
病院入口のベンチで足に包帯を巻いた若い男が、恋人らしき女と大声で口論していたこと。待合室の掲示板に貼られたポスターの画鋲が、ヒマワリを模した造りだったこと。
そうして暗い部屋に寝かされた父の顔を見たとき、やけに白いなと思った。
しっかりと閉じられた口と、瞼。生きている時との違いをいくつも見つけながら、今にも動き出しそうな感覚は消えない。
隣では母がトモの左手をしっかりと握っていたが、その力が時折きゅっと強くなったかと思うと、また空気のように緩んだ。
「トモちゃん、お父さんに、さよならして」
かすれた声で母は言ったが、トモにはその方法が分からなかった。
父の死が単なる事故ではなく、道路への飛び込みであったことは、それからしばらく、トモが知ることはなかった。遺書はなかったらしいが、目撃者が「トラックを確認してから車道に飛び込んだ」といった主旨の証言をしたようだった。
自殺の動機を、関は今も知らない。
母がトモに話さなかったからだが、母も実際のところ知らないのかもしれないと、最近は思うようになった。
昨日まで最も近くにいた人間を、理由も分からぬまま唐突に、壮絶に失うことは、どれほどの絶望だろう。どれほどの喪失感だっただろう。
母の心を、自分には推し量ることすらできない。同じ家族でも、そこには隔たりがあった。
それから母は多くの時間を仕事に費やすようになったが、暇を見つけては、トモに何事か話し掛けてくれた。
今日は体育で何をしたの?
席替えは、いい結果だった?
部活は決めたの?
他愛もないことでも、嬉しかった。トモに兄弟姉妹はなく、家の中が寂しく感じられることもあったけど、母に守られているという実感だけはずっと息づいていた。
それに比べると、学校という場所は、もう少しむき出しだったと思う。クラスメートたちの、悪意こそないが粗暴で率直な言葉たちに晒され、傷つくこともあった。
中学に上がり、トモは青木園美と出会った。
当時の友人たちの中で、三十を過ぎた今でも付き合いがあるのは五人にも満たない。園美はその中の一人だ。
特別に個性の強いタイプではなかったけれど、彼女とはとても波長が合った。
いつも二人一緒にいて、毎朝同じ場所で待ち合わせをして、同じスピードで自転車を走らせ、同じように息を切らせて学校の門をくぐる。同じように担任の悪口を言い合い、同じように期末試験で一喜一憂し、同じ人を好きになることは幸運にもなかったけれど、同じような格好で町を歩いた。
園美と共有するものはいつも、くだらなくて、面白いことばかりだったと思う。
彼女は二十一のときに早々に結婚し、今では二人の子持ちだ。最初の男の子は、まだ生まれて一ヶ月の頃に、抱かせてもらったことがある。
「絶対、トモの方が先に結婚すると思ってたけどね」
「何でよ、私、結婚願望ないっていつも言ってたじゃん」
これは二人の定番の会話だった。園美はどうも、本気でそう思っていたらしい。
「結婚はともかく、恋愛はしといた方がいいと思うよ」
「上から目線! うるさいなぁ、ほっといて」
こういう会話が楽しくて、今でも関は、園美を食事に誘うのだ。
だけど、時々思い出すことがある。
園美が覚えているか分からない。きっと覚えていないと思う。関自身も、その前後に何があったかは覚えていない。最近では、もしかすると夢の中の出来事だったのかもしれない、そう思うことすらあった。
記憶の中で、園美はトモを睨みつけ、泣きながら叫んでいた。
何もかも悟ったような顔をするな! 自分だけは特別って思ってるんだろう! その目つきが大嫌いなんだよ、と―― 。
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