8-2

1/1

54人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

8-2

 トモは母とともにタクシーに乗った。  母は車の中で一度だけ「お昼には何をご馳走になったの?」と聞いたきり、黙っていた。トモも返事などできなかった。お父さんが、死んだ。その意味を、ただ考えていた。  それからの記憶を、今でも関は妙に白々しく覚えている。  病院入口のベンチで足に包帯を巻いた若い男が、恋人らしき女と大声で口論していたこと。待合室の掲示板に貼られたポスターの画鋲が、ヒマワリを模した造りだったこと。  そうして暗い部屋に寝かされた父の顔を見たとき、やけに白いなと思った。  しっかりと閉じられた口と、瞼。生きている時との違いをいくつも見つけながら、今にも動き出しそうな感覚は消えない。  隣では母がトモの左手をしっかりと握っていたが、その力が時折きゅっと強くなったかと思うと、また空気のように緩んだ。 「トモちゃん、お父さんに、さよならして」  かすれた声で母は言ったが、トモにはその方法が分からなかった。  父の死が単なる事故ではなく、道路への飛び込みであったことは、それからしばらく、トモが知ることはなかった。遺書はなかったらしいが、目撃者が「トラックを確認してから車道に飛び込んだ」といった主旨の証言をしたようだった。  自殺の動機を、関は今も知らない。  母がトモに話さなかったからだが、母も実際のところ知らないのかもしれないと、最近は思うようになった。  昨日まで最も近くにいた人間を、理由も分からぬまま唐突に、壮絶に失うことは、どれほどの絶望だろう。どれほどの喪失感だっただろう。  母の心を、自分には推し量ることすらできない。同じ家族でも、そこには隔たりがあった。  それから母は多くの時間を仕事に費やすようになったが、暇を見つけては、トモに何事か話し掛けてくれた。  今日は体育で何をしたの?  席替えは、いい結果だった?  部活は決めたの?  他愛もないことでも、嬉しかった。トモに兄弟姉妹はなく、家の中が寂しく感じられることもあったけど、母に守られているという実感だけはずっと息づいていた。  それに比べると、学校という場所は、もう少しむき出しだったと思う。クラスメートたちの、悪意こそないが粗暴で率直な言葉たちに晒され、傷つくこともあった。  中学に上がり、トモは青木園美(あおきそのみ)と出会った。  当時の友人たちの中で、三十を過ぎた今でも付き合いがあるのは五人にも満たない。園美はその中の一人だ。  特別に個性の強いタイプではなかったけれど、彼女とはとても波長が合った。  いつも二人一緒にいて、毎朝同じ場所で待ち合わせをして、同じスピードで自転車を走らせ、同じように息を切らせて学校の門をくぐる。同じように担任の悪口を言い合い、同じように期末試験で一喜一憂し、同じ人を好きになることは幸運にもなかったけれど、同じような格好で町を歩いた。  園美と共有するものはいつも、くだらなくて、面白いことばかりだったと思う。  彼女は二十一のときに早々に結婚し、今では二人の子持ちだ。最初の男の子は、まだ生まれて一ヶ月の頃に、抱かせてもらったことがある。 「絶対、トモの方が先に結婚すると思ってたけどね」 「何でよ、私、結婚願望ないっていつも言ってたじゃん」  これは二人の定番の会話だった。園美はどうも、本気でそう思っていたらしい。 「結婚はともかく、恋愛はしといた方がいいと思うよ」 「上から目線! うるさいなぁ、ほっといて」  こういう会話が楽しくて、今でも関は、園美を食事に誘うのだ。  だけど、時々思い出すことがある。  園美が覚えているか分からない。きっと覚えていないと思う。関自身も、その前後に何があったかは覚えていない。最近では、もしかすると夢の中の出来事だったのかもしれない、そう思うことすらあった。  記憶の中で、園美はトモを睨みつけ、泣きながら叫んでいた。  何もかも悟ったような顔をするな! 自分だけは特別って思ってるんだろう! その目つきが大嫌いなんだよ、と―― 。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

54人が本棚に入れています
本棚に追加