9-1

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 幾度目かの髄液検査を翌日に控え、滝本はベッドの上で憂鬱な気持ちになっていた。  酒が飲みたい。そんな欲求が、久々に襲ってきた。  実はタバコは時々吸っていて、病院の正面入口付近に路線バスのロータリーがあるのだが、そこにかつて喫煙所であったと思われる一角があり、検査目的だった入院当初は頻繁にそこに通っていた。  とにかく今は、酒が飲みたい。  それは、あの石田という男のことを思い出してしまったからだ。滝本は荏田の言葉を反芻していた。身内じゃくてもいい、連絡ができる人―― 。  ちょうど三十を過ぎた頃だったと思う。  絢と別れ、大学を辞めた滝本は、東京に出た。阿佐ヶ谷にある安アパートを住処にして、アルバイト先を見つけては数ヶ月で辞めるという生活を続けていた。  当時、阿佐ヶ谷ではパールセンターという中心的なアーケード街の改修が進められており、街では妙な活気と希望が感じられた。とはいえ滝本のアパートはそのアーケード街から大きく外れ、せせこましい路地の奥の奥にある木造二階建ての建物である。  井坂食堂は、そこから歩いて三分の場所でひっそりと営業している古い店だ。万年金欠の滝本は、それなりの量を安く食べさせてくれるその店に、足繁く通った。 「コンチワ」  ガラスの引き戸をからからと開けると、カウンターの向こう側には、一人で店を切り盛りする婆さんがいた。顔はしわくちゃだがどことなく小綺麗な佇まいで、常連の客たちからは「ユヅキちゃん」と洒落た名で呼ばれていた。 「いらっしゃい。あら、また来たんだね、学生さん」 「学生じゃねえって。いい加減、覚えてくれよ」  そう言いながら、いつも同じ位置に座る。隅っこに置かれたテレビの正面だ。真夏の最も暑い時期、ここでユヅキ婆さんと一緒に高校野球を観たこともあった。  その店に通うようになって一年、蒸し暑くなり始めた春の日のことである。  ちょうど仕事の切れ間だった。思いの外、長く続いた運送屋のバイトであったが、少し腰を痛め、それを理由に辞めた。腰痛は比較的若い頃から悩みのタネだった。  昼過ぎ、起き抜けの空腹を持て余した滝本は、いつものように井坂食堂に足を向けると、店先で、中年の男が背中を向けて屈み込んでいるのに気がついた。  よく太った男で、それがさらに丸まっているからほとんど球体に見える。  何気なく横目でその男の手元を見ると、砂利道の脇から咲く濃いピンク色の花に触れ、何事かぶつぶつと呟いていた。滝本は何やらぞっとし、戸を開けて中に滑り込んだ。 「いらっしゃい」  ユヅキ婆さんはいつもと変わらず、滝本に声をかけた。客は他にいなかった。 「どうも。いつもの定食、お願い」  そう言って腰掛けた。婆さんがコップをテーブルに置いたとき、滝本は聞いた。 「あれ、何? 店先の怪しいオヤジ」 「オヤジって、石田さんのこと? お客さんだよ。ウチの店は、あんたより古いよ」  婆さんが承知の上で店先で蠢いているのなら、まあいいかと納得した。まもなくしてガラス戸が開き、その石田というオヤジがどたどたと入ってきた。 「ユヅキちゃん、またここで見つけたよ。いい色なんだよな、何故かこの店に咲くヤツは」 「ああ、そう。良かった」 「押し花にするよ。ユヅキちゃんにも後でやるからな」  石田が持っているものは雑草に見えた。だがその花びらの色合いと形状に、何か見覚えがあった。何ていう花だったろう。いやそれ以前に、どこで見た記憶だろうか。 「それ、何ていう花?」  一つ間を空けて腰掛ける石田に、滝本は思わず問いかけた。 「これか? 何だ兄ちゃん、花に興味あんだな。これは……っていうんだよ。小林一茶も歌に詠んでるヤツだ、知ってるか?」  その時の石田の説明は、今もはっきりと覚えているのに、何故か滝本は、花の名前だけ(、、、、)を思い出せずにいた。あの時、石田は、何の花を手にしていたのだろう。 「一茶……。知らないな」  幼い頃から読書に没頭し、中学では古典にも興味を持っていたような学生だったから、一茶が詠んだというその花を知らないことに、滝本は悔しさを感じた。  それからしばらく、石田と話した。
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