9-2

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 石田という人物は、でっぷりとした大柄の身体で、カナブンのような色合いのボーリングシャツと、薄汚れたよれよれのジーンズを履き、禿げ上がった額とよく肥えた二の腕からは、滝のような汗をかいていた。  一見して小汚かったが、花についてはやけに博識で、どこか品性すら感じさせる話ぶりが不思議だった。 「兄ちゃんは、五弁の花が好きなんだな」  滝本が口にしたいくつかの言葉をヒントに、彼はそう断言した。 「俺も一緒だよ、よく分かる。日本人なら桜もいいが、それだけじゃない。例えば、(たちばな)だ」 「橘?」 「要するにミカンの花だ。右近の桜、左近の橘っていってな。古い歌で良く使われるだろ」  それは合点した。歌はただの一つも浮かんで来なかったが、万葉集でも古今和歌集でも、橘の花は和歌によく使われるという認識はあった。 「橘は恋の歌だな。ところで兄ちゃん、彼女いるんか?」 「いないスよ。もうずっと一人」  自分が答えたその言葉に、滝本は胸がズキンと痛んだ。石田はニヤリと笑ってから、記憶を手繰るように目を閉じて歌を詠んだ。  五月まつ 花橘の 香をかげば       昔の人の 袖の香ぞする 「聞いたことあるような……」 「橘の花の香りは、昔の恋人を思い出す象徴だ。あんまり、くよくよするなよな。五弁の花が好きなヤツは、どうも感傷的でいけねぇ」 「あ、あんたも好きって言ったじゃないか」  見透かされたようで、妙に焦った。 「俺が好きなのは、クレイサスとかマリークヮントとか、そういうオシャレなやつだぞ」  巨漢のハゲオヤジが、何言ってやがる。 「だけど、桜も五弁だろ。桜好きなんて、浮かれたヤツばっかじゃねえか」 「おい。桜は別だ」  石田は急に険しい顔になった。意味が分からない。そして彼はニカッと笑った。 「はは、まあ気にするな。ほれ、結婚式で女が被るヤツあるだろ、角隠しじゃなくて、あれはウェディングベールっていうんかな」  滝本は返事もせずに、疑いの眼差しでじっと石田の目を見つめた。 「あのベールに、オレンジの花を付ける女がいる。つまり橘の仲間だ。これから結婚しようってときに、昔の男をそこで思い出すわけだ。とんでもねえ話だろ?」 「だから、何の話だよ、それ!」  そういうと石田は笑った。そのとき、滝本も笑っていたと思う。ユヅキ婆さんも笑っていた。考えてみれば絢と別れて以降、誰かと笑い合うことなど無かった。  それが石田との出会いだった。
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