10-2

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 それから辻原は言った。 「実は倉科さんがね、関さんを欲しいって言ったの」 「倉科さんが?」  関は驚いて聞き返した。  倉科頼子(くらしなよりこ)は外来リーダーで、入院リーダーの藤巻とともに、辻原のサブを務める立場だ。算定やレセプトは超が付くベテランで、自ら業務の中心に入って一連を動かす原動力となっていた。  仕事の上では尊敬できるがやや強権的なところもあり、目にも声にも凄みのある人だったから、話しかけられるといつも緊張し、ぴんと背筋を伸ばしてしまう。 「普段の業務を見ていて、そう思ったんだろうね。だけど関さんのことは、私としては算定に向くとか向かないっていうこと以前に、もったいないなって気持ちもあったのよ。毎朝病院に早く来て、カウンターとか記載台とか綺麗に拭いてるでしょ?」 「えっ」  またも意外な言葉をかけられ、関は思わず声を上げた。  最初の病院に勤めた頃、失敗ばかりしていたことの埋め合わせをするかのように始めたのが、「朝イチの掃除」だった。何となく気が落ち着くので、それは中央病院に移った今も、続けている。 「見えないところで地味な仕事や気配りができる人は、良い接遇のできる人だよ。だから私は、できれば関さんを患者さんの前に出しておきたかったの。でもさ、倉科さんに手まで握られて頼まれちゃったし、だから関さんの意向をしっかり聞きたかったんだ」 「そうですか……ありがとうございます」  素直に、嬉しかった。倉科に求められたことも、辻原に評価されていたことも。  同時に、強烈な不安がわき上がった。  新しい仕事に対する不安とは、少し違う。何故だろう、青木園美の顔が頭に浮かんだ。それも、母親となった今の園美ではない。まだ学生だった頃、涙を流しながら関を罵倒したときの、あの形相だ。 「関さんは少し自己主張が弱いから、特に意向確認は必要だって思ったんだ。やる気のない人に強いても、結局は良い結果につながらないから」 「自己主張、少ないでしょうか」 「あ、そんなに悪い意味じゃないよ、大丈夫」  だけど、大丈夫ではなかった。  分からないふりをして、蓋をしてきたこと。かつて大切な知己(ちき)を涙の魔物に変えたとき、自分はどんな顔をしていただろう。どんなふうに彼女の涙を見つめ、受け止めたのだろう。  むしろそれをこそ、最も恐ろしく思う。  思考を切り換え、元に戻した。今は統括リーダーと、業務の話をしている。 「スキルアップ、していきたい気持ちはもちろんあるんですけど、迷惑かけてしまわないかなって、不安もあります」 「今すぐ答えは出さなくていいよ」 「はい……少し考えてもいいですか?」 「うん、来週いっぱいは待つ。他の子とも話さなきゃいけないことはあるからね」  辻原がそう言ったところで、店主がパスタを二皿、運んできてテーブルに置いた。 「ひとつだけ言わせて、これは私も倉科さんも同じ意見だけど」 「はい」 「算定担当者は、単なるオペレーターではないってこと。医者や看護師の労働を、しっかりと収益に変えていく仕事だから、責任重大だよ。それに診療報酬や保険制度の仕組みは年々複雑になってるから、常に勉強して、常に考えながらでなきゃ、務まらない」  関は息を飲んだ。 「それに算定をやるってことは、レセプトまで分かっていく必要があるんだよね。そうすると今度は、病名との兼ね合いも考えなければいけない。カルテの見方を理解して、現場に積極的に関わらる必要があるし、怒られたり恥かいたりすることも多いよ」  そう、もしこの話を受けるなら、今まで避けてきた自分の弱点と、向き合わなければならない。自分は決して理解力や記憶力に長けた人間ではなかった。 「だけど、だけどね、もうひとつ補足。算定やレセプトこそが、医療事務の醍醐味なんだってこと。医事が好きで何十年も続けている人たちは、やっぱり、それが好きなんだよ。倉科さんや藤巻さんは、その典型だと思う。受付やカルテ係も大事な仕事だから質の面で差をつける気はないし、私だって現場を離れて管理職になっちゃったけどさ」 「はい。倉科さん、カッコいいなって思います。スペシャリストですもんね」  本心だった。今は本心を言っていいと思ったし、言うべきだとも思った。辻原は、管理職にならなければ良かったと思うことがあるだろうか。それも聞きたかったけど――。 「あ、ごめん。話が長引いたね。冷める前に食べよ。はい」  辻原がフォークを取って渡してくれたので、受け取って皿の真ん中に突き立てた。  園美は今、二人の子どもと旦那さんと、幸せな家庭を築いている。少なくとも、まわりからはそう見える状況にある。自分と同じように無個性で凡庸だと思っていたけど、そうではなかった。  きっとあの子には、勇気(、、)があったのだと思う。  関は、自分は一人ぼっちだと思った。  かくれんぼが終わったことにも気づかず、ただひたすらじっと身を潜め続ける子どものようだ。いつまでも見つからないことを願い、でも一方ではいつか誰かの声がして、腕をぎゅっと掴まれて、かくれんぼは終わったと告げられることに、怯えながら焦がれた。  パスタを口に運ぶ。初めて食べたけど、悪くない味だった。
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