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「滝本さん、滝本敦司(たきもとあつし)さぁん」  声がして、彼はふと我に返った。  カウンターから、女の声が自分を呼んでいることに気がついた。待合ホールは寒いくらいに冷房が効いていたが、額には汗が滲んでいる。  待合席からゆっくりと立ち上がってみた。  目眩やふらつきを感じるようになってからどれくらい経つだろう。目に映るものはすべて二重だ。天井からつり下げられた案内表示もよく見えず、歩くだけでも不便で仕方なかった。  ここは確か、入院受付、だったと思う。 「お待たせ致しました、七月分の請求書です」  点滴台を転がしながらカウンターまで歩み寄ると、紙を一枚だけ渡された。 「病室でお待ち頂ければ、担当の者がお届けに伺いますので、わざわざ会計窓口まで来られなくても大丈夫ですよ。当院では、毎月、十日過ぎに前月分をお配りしています」 「そうかよ」  目をこらして見ると、合計金額欄に「0」と書かれている。  声を掛けたのはカウンターに座っていた女で、隣に別の女が来て、二人でぼそぼそ話しながら対応していた。その様子を見る限り、受付の女は会計のことは担当外だったらしい。  何となく、苛立った。 「要するに、支払いはないってことだよな」 「はい、ございません。当院では、額面0円の方にも請求書をお配りしています。請求書がご入院期間などの証明書の代わりになる場合がありますので、そのようにしています」  ほっとした。同時に癪に障った。 「こういうことは、最初に説明しろよ。配慮がねえな」 「ご案内のパンフレットは、最初に申込み手続をされたときに、きっとお渡ししたと思うのですが……。お持ちでなければ、改めてご用意します」  それから彼女は、薄っぺらい冊子を出してきた。この病院を正面から写した大きな写真が表紙を飾っており、その真ん中にオレンジの丸文字で「安座富町(あざとみちょう)中央病院」と書かれていた。  表紙は、病院の正面入り口に咲く植え込みの花だ。見覚えがある。  滝本が入院したのは七月の頭で、検査入院の予定だった。最初に外来で診察を受けたのは、それより二ヶ月ほど前のことになる。病院の正門をくぐり抜けてすぐに目を奪われたのは、とても鮮やかな赤い花だった。それがヤマツツジだということは、後になって、病棟の看護師に聞いた。  受付の女は、冊子の説明を続けた。 「こちらには、寝具のレンタルや、診断書の申込み方法、それに限度額認定証などのご説明文書も一緒に挟み込んでありますので、お時間のあるときにお読みください」 「うるせえな、分かったよ。それより、俺の主治医は夏休みなんだって聞いたな、本当か? それなら患者にはちゃんと、事前に説明が必要なんじゃねえのか」 「先生って―― 。神経内科の大沼医師のことでしょうか」  カウンターの女は、伏せていた顔を上げた。思いの外、強い眼差しだ。  大沼稔流(おおぬまみのる)は、滝本の主治医である。  神経内科医で、初めてこの病院を訪れたときに担当した眼科の医師から引き継がれたあと、幾度かの診察と検査を経て、本格的な検査入院の判断をしたのも彼だった。  入院中の検査が終わった後、大沼は、引き続き入院が必要だと説明した。病名も聞いたが、滝本は何やら言いがかりをつけられているような気がして、理解ができなかった。 「何か相談したいとき、肝心の医者に遊びに行かれてたんじゃ困るだろうよ」  病気のことばかりではない。大沼には、話したいことがたくさんあった。 「ええと、そのことは病棟の看護師には聞かれましたか?」 「最初に看護師にそう言われたんだ。血圧を測りながら、先生は今日から夏休みですからねーってよ。随分のんきな病院だな」 「入院治療は複数の医師のチームで行っていますので、病棟に問い合わせてみますね」  彼女はそう言いながら、カウンターに置かれた電話の受話器を外そうとした。その仕種を目で追い、何気なく彼女の制服に付けられたネームプレートを見ると、何とか「関」という一文字が確認できた。  それから、プレートの付けられた彼女の胸元を見つめ続けている自分に気づき、慌てて目を逸らした。 「あ、いや、それは俺が病棟で聞いてみる、いいんだ、悪かった。もう一度、看護師に聞けばいいことだよな」 「お待ち頂ければ、確認しますけど」 「いや、大丈夫だ」  請求書と入院案内を両手に持ち、その場を立ち去ろうとしたとき、左膝が痛むのを感じた。ひどい風邪を引いたときのような、何とも言いようのない関節の痛みだ。これもよくあることだった。  思うように動けず立ち止まっていると、再び彼女が「あの」と声をかけてきた。  汗が額から流れる。書類を数枚受け取り、もう一度「悪かった」と言うと、何とか身体を動かして、滝本はその場を離れた。
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