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 すぐ返すつもりだった。  皿洗いを手伝うためにカウンターの中に入ったことがあって、現金の場所は分かっていた。気づかれまいという確信は、年寄りと思ってナメていたのだと思う。だが本当に、二週間もすれば給料が入って、すぐに全額を返せる予定だった。 「困ったねぇ」  ユヅキ婆さんは同じことを繰り返した。  滝本が肝を冷やしたのは、自分がくすねた四万円のことだけではない。石田が何故消えたのか。そのことに心当たりがあったからだ。  滝本は石田に、仕事の斡旋を受けていた。  石田が始める事業に一人、仲間が必要だと言われた。専任で長くやってもらわなければならないから、定職に就いていない若者がいい。機転が利いて知識や体力があればなお良くて、アツシは適任だと彼は言った。仕事は運送業と説明された。 「だけど俺、免許持ってないスよ」 「問題ない。軽貨物物流推進機構という国の機関があってな、申請すれば人材育成のための資金は融通してくれる。これを機会にアツシも免許を取れ」  滝本には教習所をドロップアウトした過去があったから、もう一度通うことには抵抗があったが、これはきっと最後のチャンスだと思った。 「一緒に稼ごうぜ。俺らはきっといいパートナーになる」  その言葉が嬉しかった。必要とされたこと、そして石田と一緒に仕事ができること。 「でも俺、何も用意がないけど、それでも大丈夫なんスか?」 「機構に申請するから、最初に負担する開業資金は二百万ほどで済む。この大部分が軽トラ代だ。他はほとんど要らないんだから、破格だろ?」  正直なところ、それが安いのか高いのかは分からなかった。 「うまくやれば二人で月に五、六十万は稼げるようになるから、簡単にペイする計算だ」 「だけど、その金は?」  破格とはいっても、石田だってそれだけの金を持っているようには見えなかった。 「それくらいなら、俺がすべて出すこともできる。だけど、もしこれから二人でやっていくなら、アツシにも少し責任を負ってほしいんだ」 「い……いくらくらい?」 「三十万でいい。あるか?」  それなら何とかなると答えたが、後で確認したら、当座の生活資金を残すとわずかに足りなかった。それをどうしても言えなくて、ユヅキ婆さんの売上金に手を付けたのだ。  しばらくして、滝本は阿佐ヶ谷を離れた。婆さんには正直に白状して謝ろうと何度も思ったのに、結局のところ逃げるように出て行った。他の連中に対しても同じだ。石田にも会えずじまいだった。  その頃、運送業の起業をダシにした詐欺事件のニュースをテレビで見た。石田が滝本に持ちかけた話に似ていた。  彼はきっと、悪質な詐欺に騙されたのだ。そして会わす顔がなくなって、姿を消した。あの陽気な男が、今ごろ打ちひしがれているのではないか。  やりきれない思いを抱え、滝本はまた一人になった。  次に住み着いたのは、入曽の安アパートだ。  だが、もう以前と同じではない。仕事は今まで以上に長続きしなくなったし、酒の量は増え、人とトラブルを起こすことも増えた。  三十代半ばで狭山市の社会福祉協議会の人間と話す機会があり、それを機に生活保護という制度にすがりついた。役場とは関わりたくなかったが、腰痛は悪化していたし、雨風を凌ぐだけの部屋でも、そこを追い出されるような事態は怖かった。  それがかつてないほどに現実味を増してきていたのだ。  それから、可能な限り人と目を合わせぬよう生活するようになった。何とか状況を変えたいという思いは日を追うごとに消えていき、適当な心地良さだけが残った。  今、病院を根城にして、荏田華子のようなお節介な人間に会わなければ、もう会話という会話もしないまま死んでいくことだって十分にありえたと思う。
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