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 結局のところ、関は辻原の話を受けた。  外来算定への配置換えは十月一日からで、それまでの期間は駆け足だ。後任への引継ぎと算定の基礎研修に、多くの時間を費やすこととなった。研修は、倉科とのマンツーマンである。これが緊張するやら落ち込むやらで、決して心地良い時間では無かった。 「受付だと、あんまりぺちゃくちゃ話せなくなるなぁ」  不満を言っていたのは、関の後任となった三上優理子である。私は職場へお喋りしに来ているのだと、デカい声で公言するような人間だ、この采配もどうかと思う。 「関さん、算定はスピードと正確さが両方求められる立場だよ。だけど、もしもどちらかを優先しなければならないとしたら」  これは倉科の口癖だった。 「正確さを選びます」 「そう。速くったって、間違っていたら何もならない。お金を還付したり追加請求したり、そういうことが病院の信頼をどんどん損ねることになる」 「分かりましたっ」  ほとんど師匠と弟子の関係だ。関は盲目的に、倉科の言葉を頭に刻み込んでいた。 「ウチの病院には医事システムはあるけど、電子カルテもオーダリングシステムも未導入でしょう。すべて紙の伝票と紙のカルテを見て、自分で点数を組み立てなきゃならない」 「はいっ」 「でもこんなに勉強になる環境はないよ。分からないことはすぐに点数本とか薬価本で調べて、それでも分からなければ現場に聞きに行く。分からないままにしておかないでね」 「はいっ」  関の不安は十月が近づくにつれて増大し、やめときゃよかったと何度も思った。  そんな九月も下旬に差し掛かった頃、関は母親に電話を入れ、今年の秋のお彼岸は帰らないと告げた。帰ろうと思えば帰れたが、休日も家にこもって、かつて支社から配布されたテキストや、病院から持ち帰った算定本を、まとめて読み返そうと決めていた。  母からは、特に理由を聞かれることもなかった。 「あなたが小さい頃」  母は電話口でそう言ってから少し間を空けて、「小さくもないわね、中学生だったから」と訂正した。 「何の話?」 「私に聞いたのよ。彼岸の反対は何て言うのって」 「そうだったっけ」 「私もすぐ答えられなくて、辞書で調べたの。此岸(しがん)っていうんだけどね、トモ覚えてる?」  覚えていなかった。 「私、何でそんなこと聞いたんだろうね」 「あなたに分からないことを、私が分かるわけないでしょ」  母は笑った。
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