12-2

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 九月二十六日、関は外来の看護師らに挨拶をしてまわった。妙に暖かい金曜の夕方のことだ。窓越しに中庭を見ると、キンモクセイが咲いていた。  挨拶の道々、ソーシャルワーカーの荏田華子とすれ違った。  彼女たちは、仕事中は白衣姿である。荏田は貫禄のあるがっしりとした体躯なのに、小股でちょこちょこ歩くのが特徴だった。彼女はいつだって、急いでいるのだ。 「お疲れさまです、荏田さん」 「あ、関さん。もうすぐ算定デビューだね、志田先生も期待してるってよ」  関は思わず「えっ」と声を出した。志田はベテランの外科医だ。 「で、でも志田先生は病棟部長だから、外来のことは直接は……」 「なあに言ってるの、診療報酬のことをまともに考えている医者なんて、ウチじゃ志田先生くらいでしょ。外来も入院もないよ」 「はぁ~」  何とも間抜けな声が出てしまった。まさか部長クラスの医者にも知られているとは。 「しっかり気合い入れて、肩の力抜いてね」  難しい注文をする。 「ところでそんなことよりさ、関さん、トム・ウェイツって歌手、知ってる?」  唐突に聞かれ思い出すのに三秒ほどかかったが、知識としては持っていた。確かブルースやフォークソングを歌うアメリカのミュージシャンだったと思う。 「何となく知ってますけど……いきなりどうしたんですか?」 「ちょっとね、患者さんからお願いされちゃったんだ。私あんまり音楽詳しくないから、そういえば関さんは確か、やたら古い音楽を聴く子だったなぁって思い出してさ」  荏田はトーンを落として言った。確かに関は、一、二世代前の音楽を好んで聴く。 「お金は出すからCDを買ってきてくれないかって言われたんだよ。パシリじゃねえぞって言ったんだけどさ、身寄りも無い人だし、どうしてもって懇願されたから、引き受けちゃった。悪いんだけど、関さん、買ってきてくれないかなぁ」 「はぁ、それはかまわないですけど。ワーカーさんってそんなこともやるんですね」 「普通はしないってば」  荏田は眉を下げて困った表情を作った。そして懐から一枚のメモ用紙を取り出して、関に手渡した。読みにくい字で「トムウェイツ ルビー」と書かれている。 「これが曲名ですか?」 「多分そうだと思う。関さんも、知らないんだね」 「そうですね、調べてみます。ちなみに、どこの患者さんですか?」 「例のあの人だよ、ほら、東四の滝本さん」  滝本敦司―― 。入院受付で一度対応しただけだったが、よく覚えている。居丈高で不遜な態度が、何故かとても情けなく、そしてか弱く見えたあの男だ。 「何か、いろいろ話を聞いてたら、寂しい人なんだなって思っちゃったよ。その曲、どうしても聴きたいらしいんだ。お金は私が立て替えとくからさ、お願いね」  そして千円札を三枚、関に差し出すと、荏田は足早に去って行った。仕方ないなと思い、メモとお金を制服のポケットにしまうと、関も医事課へ戻った。
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