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14-1
滝本には分からなかった。
その受付の女は、なぜ悲しそうな顔で自分を見つめるのだろう。滝本はCDの入ったビニール袋を受け取って、ちゃんと礼も言ったというのに。
その女に向け、自らが発した言葉で滝本ははっとした。
もう、誰かに何かをしてもらう時期は過ぎたのだ。
いつだって「記憶」が、自分の足を止める。赤ん坊のようにただ一歩の歩みもできないでいるのは、左膝の痛みのせいなどではなかった。
荏田にCDを頼んだ直後、滝本はあの包みを開けた。
そこには三通の手紙があった。すべて誕生日を祝う短いメッセージで、絢が就職した年のものが最後だった。そして滝本の誕生日より一ヶ月ほど前、二月四日の彼女の誕生日に、どうも自分は花を贈ったようだった。
あんなプレゼント、初めてもらった。
嬉しかったよ。ありがとう。そして誕生日おめでとう。
メッセージカードに整然と並ぶ美しい文字を読みながら、滝本は早鐘のような鼓動が止まらなかった。滝本が贈った花は、花ではなく、花の写真であるらしい。
思い出した。
それは、サクラソウだ。
どうして写真だったのかは分からない。ただ花を見つけられなかっただけかもしれない。そして写真には、メッセージを添えた。
記憶の蓋が開いたように、その内容も思い出せる。
ちょっと洒落たことがしたくて、花言葉を調べた。就職してしばらくの間、彼女は仕事のことで悩んでいると、何度か漏らしたことがあったのだ。働いたことのない滝本にはその悩みの一端すらも想像できなかったが、せめて励ましたかった。
絢が必死で抱えている努力や苦労を、他の誰が見ていなくても、俺は見てる。誰もが見落としていても、俺はちゃんと見てるからそれを分かっていてほしい―― 。
そんな気持ちを伝えたくて、赤いサクラソウを選んだ。その花に込められた花言葉のひとつを、滝本はすごく気に入った。ちゃんと伝わるか不安だったので、メッセージは読みやすく、丁寧に。
滝本は絢に心を込めて、花の写真と、花言葉を贈った。
顧みられぬ美、と。
「タキモトくん、こんなことを考えてくれたんだね」
受け取って、絢は言った。
「不意を突かれたな。でもタキモトくんらしい」
だったら、何故だ。どうして絢は、俺の元を去っていった?
「本当にちゃんと見ていてくれる? 美だけじゃない、あたしのダメなところも、イヤなところもだよ。それってけっこう大変なことだよ?」
そんなことも彼女は言っていた。
だが俺はきっと、肝心なことを思い出していないのだ。滝本は頭をかきむしった。やはり読むべきではなかった。
忘れたいこと、忘れられないこと、忘れたくないこと、忘れてしまうこと――。
記憶ってヤツは、いつもそうだ。俺を苦しめ、苛むものでしかない。
滝本はすべての行き先を失ったような気持ちになって、CDを買ってきてくれた受付の女の顔を見た。
可愛い人だと思った。女を可愛いと思うのは、もう何年ぶりだろうか。
「ありがとう、もう大丈夫だ」
もう一度、滝本が言うと、彼女はぺこりと頭を下げ、「失礼します」と言って去った。
そしてまた、薄暗い部屋に一人になる。
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