56人が本棚に入れています
本棚に追加
14-3
それは生涯で一番最後に、全力で走ったときのものだ。
絢と日光に旅行に行った帰り、立ち寄った宇都宮のデパートで宝石店に入った。結婚話などできる立場ではないが、絢が「指輪を見たい」と言うので渋々入った。ティファニーブルーの輝きを前にして、隣に俺がいて絢は恥ずかしくないのだろうかと本気で思った。
「やっぱいいなぁ、憧れる」
絢は滝本の手を引っ張りながら、目を輝かせて店内を歩きまわった。やがて唐突に、絢が滝本の目を見てぴたりと動きを止めた。
「あ、やばい。来ちゃった」
「何が?」
「生理。そろそろかなあと思ってたんだけど。危ない危ない、温泉の後で良かったよ」
淡々と話す彼女とは対照的に、滝本は死ぬほど焦った。
「お、俺どうすればいい? 人、呼ぶか?」
「バカか、人を呼んでどうする。あたしさあ、うっかりナプキン持って来るの忘れちゃったんだ。あまり歩けないし、この辺にいるから、買ってきてくれない?」
どん、と雷に打たれた気がした。とんでもない使命を仰せつかったみたいだ。
「分かった、すぐ行ってくる」
「あ、待って。あたしが使ってるヤツはね」
商品名を確認すると、滝本は駆け出した。デパートを出て、オリオン通りに入る。
アーケード街は嫌いじゃない。だが、どこに薬局があるかなんて分からなかった。走るしかない。人はけっこう多くて、障害物ばかりだった。
走れ、走れ。
書店がある、喫茶店がある。レコード屋や古着屋もあった。目的の店じゃない。走れ、もっと速く!
彼女をもっと引っ張って、強くなって、守りたい。欲しいのなら指輪だって洋服だって、いくらでも買ってやりたい。それなのに、彼女のために今できることは、近所の薬局に生理用品を買いに行くことだけだ。
走れ、走れよ、このポンコツ! 走ることだけは得意だっただろう、全力で行けよっ。
飲み屋、洋食屋、薬局……。
薬局、あった!
小さな古い薬局だった。駆け込んで、彼女の教えてくれた商品を探し出し、早々に購入する。そしたら元来た道を戻るだけだ。
息を切らせながら帰ると、彼女は笑顔で迎えた。
「ありがとう、速かったね。へへ、助かります」
受け取ると、彼女はトイレに消えた。何だか拍子抜けしたが、やはり少し嬉しくて、大胆にも、いつか指輪も買ってあげたいなどと思った。
「ミノル、忙しいところ悪かったな」
滝本は意識を今に戻した。大沼も勤務中だ、長く拘束するわけにはいかない。
「いえ、大丈夫ですよ」
「お前は主治医で……俺は、病気なんだな。今、初めてそのことを分かった気がする。どうして今になって、病気になんかなっちまったんだろう」
滝本は危うく、これからというときに、と言いそうになった。希望的な材料など何もないくせに、何がこれからなのか分からない。少し可笑しくなった。
「原因は何とも言えません。でも、僕はアッちゃんと一緒に、病気に向き合います」
滝本は小さく頷いて、大沼に仕事に戻るよう促した。
「ミノル。お前が俺の主治医でよかったよ」
「治療はこれからですよ」
そんなことは分かっている。だがようやく、厄介な病気を抱えた自分の現状を、本気で憂えることができそうなのだ。大沼には、せめて伝えたかった。
かつて、石田は言った。彼岸花ではない全ての花は、この世の花なんだと。
もう一度、それを見つけたい。
滝本は、静かに目を閉じた。
最初のコメントを投稿しよう!