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滝本敦司という入院患者の対応を終えると同時に、再び三上が、関の元に近づいて来て聞いた。
「例の、滝本さんでしょ。ごねてたの?」
「ん、いやそうでもないよ、大沼先生がいなくなって不安だったみたい」
関は答えた。三上優理子は同じ医事課の委託職員で、東四階病棟の算定担当者である。先ほど渡した「0円」の請求書を計算したのも、彼女だった。
「先生だって夏休みは取るからなぁ。ちゃんと説明してない病棟も病棟だけどね」
三上が笑った。
患者から見える場所で歯を見せて笑わぬよう、統括リーダーの辻原からは強く言われていたが、三上はおかまいなしだ。
三上は会社から貸与される制服についても、デザインが良くないだの何だのと、平然と大声で話す。関はというと、黒地にピンクのアシンメトリーチェックをあしらったそのデザインが、実はけっこう気に入っていたのだけど、バカにされそうだから言っていなかった。
「滝本さん、あれでまだ四十六歳なんだよ」
「えっ、四十六?」
思わず声を上げ、関は自分の口を手で覆った。
つい先程まで話していた男は、痩せこけた貧弱な体躯と、白髪混じりのボサボサの髪、それに深く刻まれた皺と、黄色く充血した目。関は六十代くらいだろうなと、勝手に認識していた。入院申込書の生年月日欄は前に見ていたはずだが、覚えていなかった。
「まあ痩せてるのは、もしかしたら病気のせいなのかもしれないけどね。それにしてもさ」
言葉にしなかったが、二回頷いた。
関朋枝は、入院受付の担当である。三上とは席が近く、比較的よく話す相手だった。
三上が担当する東四病棟は、神経内科を中心とした慢性期の病棟だ。ここの診療費算定業務は、一言でいえばヒマなのだそうだ。慢性期の患者は、入院初期の検査などを除けば、毎月の医療行為にさしたる変化がない。そんなポジションに遊び人の三上を配置するなんて、どう考えても采配ミスじゃないかと関は思う。
「病気はともかく、ほとんど仕事もしてなかったみたいだし、何つうか、あの人、陰がある感じがするんだよね。それに、どうも大沼先生とは知り合いらしいよ。関ちゃん、それ知ってた?」
「ううん、知らなかった」
「初診で眼科にかかったとき、診察室で暴れたでしょ。お酒も飲んでたみたいで、大声も出して恫喝まがいのことまでして。本当なら一発でブラック指定なのにね。そうしなかったのは大沼先生がいたからみたいだよ」
「庇ったの?」
「それはどうかな……。そもそもどういう知り合いかも分からないけど」
三上が滝本のことを「例の」と形容したのには、そういう意味があったようだ。彼女には仲の良い看護師が病棟にも外来にもいて、情報網も広い。
ちなみにブラックというのはブラックリストのことで、問題のある患者はそのリストに名前が載り、「ウチでは診察しない」などの取扱いを定めることがある。医師法では応召義務が謳われているが、患者との信頼関係が損なわれれば適用除外にできるのだ。
「さっきね、荏田さんから言われたの、五十一番の申請、しなきゃなぁって」
「それって、特定疾患のことだっけ」
荏田華子はベテランのソーシャルワーカーである。近隣病院との連携業務や患者の退院調整のほかに、公費と呼ばれる助成金の申請手続も行うのだ。公費はその種類を示す二桁の法制番号を持ち、例えば十二番は生活保護で、滝本の請求書にも十二と記載されていた。
それに加えて、五十一番である。これは特定疾患治療研究事業という名の公費で、いわゆる難病を指す。
「まあ元々あの人は生保だから、自己負担はないんだけどさ。でも何の病気かは気になるじゃん。関ちゃん、入院診療計画書とか見た?」
「いや、中身までは。書類が揃ってるかどうか確認するくらい」
意識の低さがバレそうで、ちょっとバツが悪かった。でも相手が三上だったので、そこはさらっと流された。
「大沼先生が夏休みに入る前に、レセプトのチェックを前倒しでやってもらったのね。そのとき改めて確定病名を見たんだ。八月だったから、告知してあるかどうかは分からないけど」
それから、三上は病名を教えてくれた。だがレセプト業務を担っていない関にすれば、その名前は何となく聞いたことがあるという程度だった。
「七月は検査のオンパレードだったけど、最初から大沼先生だったから、確定診断も早かったんじゃないかなって思う。一ヶ月だもんね」
「最初に診てもらう先生って大事だね」
「他人事じゃないよ、ホントに」
三上は少し笑った。そういえば前に、頭痛の原因が分からずあちこちの病院を転々として、かなり大変な思いをしたと眉間に皺を寄せて愚痴っていた。
神経内科の大沼は、四十過ぎだろうか、線が細く大人しい雰囲気で、どちらかといと印象は薄い。
「大沼先生、患者さんからも結構評判いいんだよ。だから、あのオッチャンはラッキーだったと思う。まあ、またいつ暴れるか分からないし、あんまりずっといられても困るけどさ」
三上はそう言ってまた笑った。
関は、ついさっきまで話していた男の顔を思い出した。
滝本敦司。
大声で医者を恫喝するような一面を持ちながら、一方では、女の胸を見ていたことを当人に気づかれ、そそくさとその場を逃げ出すような小心者だ。
その後ろ姿が、関の目には何とも惨めに映った。
そして――。何故だろうか。
関は、幼い頃に死に別れた父親の姿を、滝本に重ねていた。
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