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3
病棟へと向かって廊下を歩き、売店の前を横切ってエレベーターを待ちながら、滝本は、思い出していた。
六月の終わりのことだ。最初に診察室に入ったとき、そのことに気づかなかった。
もちろん最初というのは眼科ではなく、神経内科の受診のことだ。眼科の医師は横暴に怒鳴りつけるだけで、そもそも診察ではなかった。
その医師は何故か椅子に腰掛けるわけでもなく、狭いブースの中央に立っていた。音楽家のように痩せた体躯を白衣に包み、男は軽く頭を下げた。
「大沼です」
滝本も頭を下げ、丸イスに腰掛けた。その日、滝本は酒を飲んでいなかった。自制したからではなく、金がなかったからだ。
「滝本敦司さん……ですね」
医師は滝本をじろじろと見た。眼科を受診したときに大声を出したことで、要注意と思われているのかもしれない。居心地が悪かった。
「僕のこと、覚えてないですか」
不意に聞かれた。その顔に見覚えはなかった。医師は確か、大沼という姓だった。それでも覚えがない。
「滝本さん……。アッちゃんでしょう? ほら、大沼稔流、覚えてないですか」
「大沼……大沼ミノル?」
雷に打たれたように閃き、記憶の扉から断片的に映像が溢れ出してくるのを感じた。
「ミノルかよ、お前」
彼は幼なじみだった。
滝本より確か三つか四つほど、年少であったと思う。彼は近所の馴染みだった。あの頃、同級ばかりでなく名前も素性も知らない少年たちの寄り合いが、そこには確かに存在した。
「随分久しぶりだな……何年ぶりだよ。よくもまあ、俺のことを覚えていたもんだな」
そうは言ったが、滝本も幼い頃の記憶ははっきりと残っている。
ミノルは、同じ年齢の他の子どもよりも、身体が小さかった。両親は共働きであり、いつも寂しそうに俯きながら歩く姿を見かけたものだった。
声をかけたのは、滝本か、その取り巻きだったと思う。
彼はすぐに仲間になった。漫画を貸してやったり、スーパーカー消しゴムをいくつか譲ってやった。植物の遊び方も教えた記憶がある。ナズナで音を鳴らして、オジギソウを突っついて、キイチゴを見つけた日には二人で食べたりもした。
「お世話になりました、いつも遊んでもらってましたね」
かつてミノルと呼ばれた少年は、白衣に身を包み、すっかり大人の振る舞いを見せながら、それでも少し照れくさそうに笑った。
「世話ったって、ただ一緒に走り回ってただけだろうが。それにしても、すごいんだな、お前……。医者になったのか。そういえば、昔から頭が良かったもんな」
「そんなことないですよ、ひ弱なイメージがあるからそう思うんじゃないですか?」
「いや、確かに頭が良かったよ―― 。覚えてる、俺らとは使う言葉が違うような気がしたんだ。俺の主治医になるのかよ」
「そうですね、まずは検査からです」
滝本は心なしかほっとした。一方で、妙な焦りも感じる。かつて大沼は、舎弟のような存在だった。それが滝本の心に、安堵と羞恥を与えた。
「アッちゃんが怒鳴ったあの眼科の先生、県内では結構な名医なんですよ」
「あいつが? 信じられねえな」
「神経内科の僕に振ったのも、最初の問診である程度、見立てがあったからなんです。もちろん詳細な検査はこれからですが」
「見立てって何だよ」
「あ、いえ、曖昧なことは言えないので、検査の結果が出てから話します。最初は血液と尿検査、それとレントゲンですね。これを持って、まずは採血室に行ってください」
そう言うと、大沼は複写式と思われる伝票の束をクリアファイルに入れて、滝本に手渡した。
「それから、これは眼科からの申し送りですが、前回ちゃんとできなかったので、眼科領域の検査もします。視能訓練士という専門の人がいますから、そこで受けてください」
大沼はてきぱきと説明を進めたが、滝本はというと、その内容をあまり聞いていなかった。
「立派になったよな……本当に。あの頃、お前はみそっかすだったくせに」
クリアファイルを受け取りながら、滝本は言った。
「はは、懐かしいですね、その言葉」
みそっかすは、子どもたちだけのルールだ。これから鬼ごっこをするけど、まだ小さいからアイツはみそっかすにしよう―― 。そんな使い方をする。鬼はその子を、捕まえられそうでも、捕まえない。その子はもし捕まっても、鬼にはならない。そんな特別ルールだった。
そんな形で参加して何が楽しいのかと、滝本は思っていた。だがそれでも、ミノルはきゃっきゃと笑いながら全力で走り、逃げ回っていた。
「でも僕、自分がみそっかすだった自覚なんて、ないんですよ」
「バカだな、気づかないまま逃げ回ってたのか」
滝本は可笑しくなった。
「いつも捕まらないから、何か得意になってて、楽しかったんですよね」
「まだチビだったからな、ワケ分からんまま、走り回ってたんだろうよ。幸せなもんだ」
「そうかもしれませんね……」
あの頃の光景を、滝本はいつだって鮮明に映し出せた。
大沼とは違う、自分は草むらの中を先頭に立って、風のように走り抜けた。誰も、自分には追いつけない。同級生も、上級生も、担任の先生すらも。あの頃、鬼ごっこをして自分が負けたという記憶はなかった。めくるめく世界は何者にも遮られることはなく、ただ一途に澄み渡って光るのだ。
それが、四十半ばを過ぎた今でも、小さな誇りだった。
「懐かしいですね、本当に」
「あれから、何十年も経つのか」
「そうですね……。あ、次の患者さんも待ってますから、取りあえず検査をお願いします」
ずっと、それを言いたかったようだ。滝本は部屋から出た。
それから一通り検査を受けて、再び診察室に戻ったのは午後だった。
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