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十七時半を過ぎた頃、関は更衣室へ向かっていた。
更衣室は、今は閉鎖されているが、かつて東5階病棟と呼ばれた場所にある。一部のパート職員を除けば、入院受付の関が最初に医事課を退室することが多かった。
この日は、カルテ係の柳井美智も一緒だった。関の苦手な相手だ。
「関ちゃんさ、湯島さんのアレ、どう思う?」
更衣室へ向かう道々だ。「アレ」の意味を関は分かったが、分からない表情をした。
「アレって、だからさ、神崎先生のこと。そりゃ先生と仲良くなるのはいいよ、だけどやっぱり委託業者って立場だもん、線引きはある程度、必要じゃない?」
「あー、そうですね、神崎先生、人気あるから」
「人気の問題じゃなくってさ。違うよ、関ちゃん」
少し皮肉を言ったつもりだったが、正面から否定された。柳井が外科の神崎先生を慕っていることは、誰が見ても分かることだった。
「外科の飲み会に顔を出させてもらうのはいいと思う。私もあるからね、私も割とよく呼ばれるから。でも、二次会は違うんじゃないかってこと。これ、みんなそう言ってるよ」
柳井は言った。彼女はよく「みんなそう言っている」と言うのだが、その「みんな」が誰のことを指しているのかは、いつだって謎のままだ。
「そうですねー、神崎先生は結婚してるし、湯島さんは別れたばかりですもんね」
「んー、ちょっと違うんだよなぁ、関ちゃん噛み合ってないなぁ」
柳井は苛立った様子だった。
湯島いづみは、柳井と同じカルテ係であり、柳井より少し後に配属になったらしく、いずれも関の先輩であった。
二人の仲の悪さは皆の知るところであるが、関はどちらもあまり好きではない。幸運なのは、カルテ係との関わりは翌日の入院予約患者のカルテやフィルム等をやり取りする程度であるため、二人とはさほど言葉を交わさずに済むことだ。
「湯島さん、だらしないからダメなんだよ。仕事もそうだけど。私は、ああいう姿勢はダメだと思う。何で彼女が接遇委員なのかな、一番適任じゃないよね」
「そうですね。あー、いや、どうでしょうか。厳しい人だと、ウチら困っちゃうからなぁ」
関は少し笑ったが、柳井は笑わなかった。
「関ちゃんも真似しちゃダメだよ、今日の定例で、また彼女、何か言うみたいだけど」
「えっ、定例?」
関は驚いて聞き返した。定例とは、月に一度の定例会議のことであり、その日の業務終了後に委託職員だけで集まって行う反省会のようなものだった。
毎月、レセプトの請求日である十日の業務終了後に行うのが、通例であった。
「そだよ、今日だよ。今月は十日が日曜だから、今日に前倒しになったんじゃん」
忘れていたが、そう言われれば、定例会議の前倒しについては、朝のミーティングでリーダーの辻原が何度か言っていた気がする。
関は急に面倒臭くなった。今日はさっさと帰りたかったのに。
「関ちゃんダメだなぁ、意識低いよ。でも請求前でみんな忙しいし、すぐ終わるでしょ」
二人はエレベーターを降り、更衣室に入った。もわっとした熱気だ。すぐに冷房を入れた。ここは休憩室も兼ねており、定例会はいつもここで、十数名が丸イスを並べて行う。
やがて、入院算定係や外来受付の担当者らが、ぞろぞろと入ってきた。一部の者は会議後も残業するつもりなのだろう、ノートだけを手に持っている。外科の西二階病棟を担当する藤巻浅子は、残業が常態化している。
統括リーダーの辻原真衣も姿を見せた。
続いて入って来たのは、病院側の職員で、医事係の納見慧一だった。定例会議に病院職員は出席しないので、部屋が一瞬ざわついた。
「みんな揃ってる? じゃあ、早いとこ始めるよっ!」
辻原は大声を出した。
「今日は最初に、納見さんからお話がありますので、よく聞いてください」
「ええと、どうも、お疲れさまです」
納見がそう言うと、皆が一斉に、平べったい声で「お疲れさまでーす」と答えた。
「一点だけ、注意をお願いしたいので、請求前のこの時期にお邪魔しました。ここ最近、レセプトの取り下げによる返戻が急に増えています。特に入院レセプトですが」
診療報酬の請求事務は、関は苦手分野だ。
返戻とは保険者に請求したレセプトが、審査機関のチェックを受け、保険番号などの誤りによって差し戻されることだったと思う。
「算定ミスに気づいて、病院の方から戻してもらうよう依頼することもあるんだよ」
戸惑った顔に気づかれたのか、隣に座っていた藤巻がそっと教えてくれた。関は「なるほど」とだけ答え、再び目を納見に戻した。
「もちろん算定漏れの修正など、必要な場合もあると思いますが、保険者からの入金が、二ヶ月も三ヶ月も遅れることになります。入院レセだと、一件で百万前後の入金が遅れることにもなりかねません」
関には意味が分からなかった。隣では藤巻が、独り言のように「知るか」と呟いた。彼女は入院係のリーダーでもあるが、口が悪いので裏方向きだというのが大方の評価である。
「入金が遅れるということは、病院も企業ですから、黒字倒産する危険性もあるわけです」
「まったく、納見さん、分かってないよ」
愚痴を続ける藤巻につられて、関も自然と怒りの表情になっていたが、よく考えれば自分には何の関係もないと気づいた。いつも通り、決められた受付の仕事をするだけだ。
「そこで今後は、本当に必要な取り下げか、事前に相談するようお願いします」
そこで納見は頭を下げた。
「あの人、ウチらが派遣じゃなくて請負契約だってこと、分かってんのかな。指示を仰ぐなんて運用、ダメに決まってんじゃん」
藤巻の言う意味もよく分からなかったが、関は一応「そうですよね」と返事をした。その後、辻原が「今月分からお願いね」と付け加え、その議題は終わったようだったから、考えるのをやめた。
それから三十分ほどで定例会は終わったが、湯島の接遇に関する提言は、割愛された。
ようやく帰れると足早に駐車場へ向かった関は、そこでたまたま、その湯島いづみと顔を合わせてしまった。
そこから一時間ほど、柳井への悪口を聞かされるハメになる。
今日は厄日だと思った。
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