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 滝本は四人床の病室でベッドに横たわり、天井をじっと見つめていた。毛布一枚を掛けていたが、少し肌寒い。  いつしか天井にある妙なシミが、人の顔に見えてきた。入院当日に看護師に聞いた話では、ファンコイルの配管で結露していて、水滴が染み出してくるのだそうだ。  滝本は大沼に会い、久々に「みそっかす」という言葉を口にして、昔の記憶が思い出された。  昔といっても、少年の頃の記憶ではない。  かつて滝本は、県内にある大学に籍を置いていた。  好きで入った文学部ではあったが、二十歳の頃に辞めた。黙って卒業していればバブルの恩恵もいくらか受けられただろうにと、当時膵臓を患って入院中だった父親が、ベッドの上で残念そうに言っていたのを覚えている。  それからはうだつ上がらぬ日々を三年間も過ごしたあと、もう一度受験生になろうと決めてから、また二年が無駄に過ぎた。  時間というものがこうも湯水のように流れ落ちることを知るのは、いつだって、すべてが過ぎ去った後だ。  新たに選んだ大学は、県外の農業大学だった。  バイト先で知り合った女を好きになり、彼女がその大学の一年生だったからだ。動機は安直だが、再受験まで考えるほど情熱的だった自分に、今となっては驚きを感じる。 「タキモトくん、受検生になるんだね。あたしと一緒にいたいから? 嬉しい動機だな。だったらラボも一緒がいいよ、醸造学はきっと楽しいよ」  その人は、名を酒匂絢(さこうあや)といった。滝本はその字面を知り、とても綺麗な名前だなと思った。  バイト先のコンビニで初めて出会ったとき、彼女は名前をメモ用紙に書いて「よく酒臭いって冗談いわれるけど、あたしこの名字が好きなんだ」と笑った。彼女はせっかくそんな名字だからと醸造学に興味を持ったらしいが、その話はどこまで本当か分からない。  あっという間に、滝本は絢に恋をした。  もしかしたら絢も自分を好きかもしれないと思っていた。だから何の興味も関わりもなかった世界に飛び込もうと思えた。化学も生物も高校の頃は苦手分野だったはずなのに、二年間の猛勉強の末、彼女と同じ醸造科学科に進学できた。一年の中盤からプレゼミ扱いで研究室に顔を出させてもらったのも、絢の口添えがあったからだ。  滝本は、二十七になっていた。  彼女は本当に研究が好きで、ラボでの白衣姿が印象に残っている。試験管に入れた日本酒を飲ませてもらったこともあった。ラボ内では周知の交際だったから、まわりには気を遣わせただろう。その罪悪感すらも、どこかふわふわとした幸せの一要素だった。 「タキモトくん、車がないと大変だね」  時折、絢は言った。 「今まで必要性を感じなかったから。免許は取らなかったんだ」  それは嘘だ。  当時滝本は、大学から山道を下りた麓のあたりにあるボロい学生アパートに住んでおり、通学は自転車だった。免許を取るべき必然性も、教習所に通う時間も、かつて山ほどあったのに、滝本はそれを避け続けてきた。  教習所が怖かったのである。  理由は簡単で、思春期を過ぎたあたりから心のうちに芽吹いた強烈な劣等感を、最も感じる場所だったからだ。  自分には何もない、能力も、魅力も、誰かの興味を引くような個性も、面白味も。ずっとそんな思いを抱えて生きてきた。  最初の大学に進学した頃、教習所へは一度申込みをして数回通ったが、やがて行かなくなった。とにかくその頃は、バイト、サークル、ゼミ、そして教習所。そのすべてが苦手な場所だった。順調に歳を重ねているまわりの若者たちに気後れをして、足が遠のいたのである。 「まあ、持ってなくても大丈夫。あたしの助手席に乗ってればいいんだよ」 「ラクだし、そうさせてもらうわ」  絢が嘘を見透かすように言った言葉が、言いようもないほど情けなかった。
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