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 やがて絢は大学を卒業したが、大学院には進学せず、長野にある味噌メーカーに就職した。滝本は二年生になったが、ラボの学生たちはもう滝本を仲間とは扱わなくなった。  生涯を通じて、滝本には友人がいたことがない。  人と、言葉をつなぐことができなかった。人にどんな言葉をかけられても、何を答えるべきかを見つけることができない。良くしてくれる人もいたが、向き合っていると言い知れぬ罪悪感が沸いて出て、その人から逃げ出したくなるのが常だった。  たけど絢は、絢だけは、特別な存在だった。多分、それが恋でなかったとしても。彼女だけは、ただの一度も、目を逸らしたりせず、話をしてくれた。  絢が去り、滝本もラボへ顔を出すことをやめ、講義への出席も少しずつ減った。  ある夏の日、滝本は絢の住む町で、彼女と会った。  夏の日差しが木漏れ日となって降り注ぐオープンテラスのカフェで二人、アイスコーヒーを飲んだ。逆光のせいか彼女の顔は白く輝いていたが、それ以上の笑顔で彼女は言った。 「やっぱりお味噌を選んで良かったよ。とてつもなく充実してます、最近のあたし」 「そっか、いい選択だったな」 「今でも、卒論のテーマで悩んでた時のこと夢に見るんだよね。最初はお酒で研究構想を立ててたんだけど、考えて考えて、そうだあたしは味噌が好きなんだって気づいた」 「そもそも、酒はそんなに強くないもんな」 「ま、それもあるけどね」  彼女はまた笑った。その笑顔を直視できないのは、日差しのせいばかりではなかった。 「タキモトくんはどう、最近」  滝本は答えに窮した。明らかに不自然な沈黙が生まれて、マズい、何か言わないと―― そう思えば思うほど、言葉が出てこなかった。  そんな表情をまじまじと覗き込んだ後、彼女も一度空を見た。 「あのさ、タキモトくん、酒粕の字、分かる? そりゃ分かるよね」 「サケカス?」  彼女は手帳を取り出して、その文字を書いてみせた。 「ほら、これが酒粕だよ。でも、これもカスって読むんだ。あとこれもそう。知ってた?」  彼女が続けて書いた文字は「滓」「糟」という字だった。 「あんまり使わないんだよね、ウチの社内報で味噌粕の料理とか紹介してるけど、やっぱりこの粕なんだよ。他は悪役みたいで、意味は残りカスなんだから一緒なんだけど。変だよね。同じものでも、違うようになるってことかな、きっと、使い方次第で」  彼女はまくしたてる。滝本はそこで気づいた。 「絢、俺を励まそうとしてんの?」 「えっ何で? 落ち込んでるの?」  絢は驚いた様子で見返した。結局のところ、彼女の本心は見えない。  あの時、絢は味噌粕という言葉を使った。滝本はずっと覚えていた。味噌粕。それはかつてのあのルール「みそっかす」の、漢字表記だった。  彼女と別れることになったのは、それから三ヶ月ほど経った頃のことだ。電話で、彼女から切り出された。そのときすでに、絢には新しい恋人がいて、会社も辞めていた。 「あたしがダメになったとき、タキモトくんは見て見ぬふりをした。最初から、あたしをちゃんと見てくれなかった。あたしの悪いところから目を逸らした(、、、、、、、、、、、、、、、、、)んだよね。さよなら」  それが最後の言葉だ。  滝本には、本当にワケがわからなかった。心当たりがないのだ。だからこれはきっと、どうしても別れたくて、絢が作り上げた方便なんだろうと推測した。  それからしばらくの間、滝本は惨めなほど何度も何度もすがりつくように電話をかけたり、直接会いにも行ったりもしたが、ついにもう一度顔を見ることすら叶わなかった。  天井に描かれた人型のシミと見つめ合いながら、滝本はそんなことを思い出していた。
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