第三話 目的も理由も失った者と、価値のない者

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第三話 目的も理由も失った者と、価値のない者

 立ち並ぶ家々の塀に囲まれた、夜の路地で。  異常に強く速く脈打つ心臓の鼓動を感じながら。  屈強そうな男達から、力のない少女を守るために。  洋平は思い切り、特殊警棒を振り下ろした。少女の胸ぐらを掴む、男の頭に向かって。手加減など、一切なしに。  ──ゴンッ  鈍い音と、固く重い感触。  男は少女の胸ぐらから手を離し、(うずくま)ってその場に倒れた。失神はしていないようだ。血が吹き出る頭を、両手で押さえている。  一人の男が殴られたことで、他の二人が洋平の存在に気付いた。しかし、まだ臨戦態勢になれていない。唐突に現れた洋平に対し、この場ですべき判断ができずにいる。  男達に正常な判断をする隙を与えてはいけない。奇襲は、時間が生命線だ。コンマ何秒という、人間が正常な思考を繰り広げるまでの時間。その時間を与えてしまったら、完全に終わりだ。  間髪入れずに、洋平は特殊警棒を振り上げた。右側にいる男の頭に振り下ろす。  ──ゴンッ  再び、鈍い音と固く重い感触。  二人目の男も頭から血を吹き出し、その場に蹲った。  流れるような動きで、洋平は残りの男に向かって特殊警棒を横凪に振った。狙いは、男の側頭部。  ──ゴキッ  他の二人を殴ったときとは違う感触が、手に伝わってきた。固い物が割れるような感触。特殊警棒が当たったのは、男の目の横あたりだった。  この感触には、覚えがあった。洋平の記憶に蘇る、弟が殺されたときの記憶。そのときに洋平は、父親の暴行により右足の脛を骨折した。そのときの折れた感触とよく似ていた。  おそらく、男の顔の骨が折れた。  もちろん、男の怪我の具合を気にしている余裕はない。  男三人は、決して軽傷とは言えない怪我を負った。もしここで彼等に捕まりでもしたら、その報復は尋常ではないものになるだろう。自分に対してはもちろん、この少女に対しても。  ──守るんだ! 俺が!  洋平は少女の手を取った。  彼女は、目の前で起こったことが理解できずに呆然としている。 「え? 何?」  少女の口から困惑の声が漏れた。だが、いちいち説明している余裕はない。この男達が動けるようになる前に、この場から逃げないと。 「逃げるぞ!」  少女を覚醒させるような大声で言い、握った彼女の手を引いて走り出した。  洋平は、少女の手を握る左手に目一杯力を込めている。絶対に離さない。絶対に守る。そんな気持ちの表れのように。「痛っ」という少女の声が聞こえてきたが、気にしている余裕はない。  後ろで、男達が立ち上がるのが見えた。想像以上に早い。あれだけのダメージがあったら、通常なら、しばらく動けないはずなのに。  これが、暴力の世界に身を置いている人間か。暴力の中で生き、他人を傷付けることに躊躇のない人種。  洋平の背中に寒気が走った。捕まったら、この少女がどんな目に合わされるか……。その凄惨な光景が容易に目に浮かぶ。  少女の腕を掴む左手に、洋平はさらに力を込めた。絶対に捕まってはいけない。どんなことがあっても逃げ切らないと。  住宅街としろがねよし野の間を通る道路に出た。幸い、車は走っていなかった。  片道三車線の道路を横切り、しろがねよし野の中に入る。  この街の地理は、綺麗な碁盤の目状になっている。このまま北に向かって走ると、しろがねよし野の出口で国道にぶつかる。そこからさらに北に行くと、市内を走る大通り。文字通り大きな通りで「大通駅」という地下鉄の駅もある。  大通駅付近まで、ここらか約一・五キロメートルといったところか。  そこまで逃げ切ろう。男達のあの出血量から考えて、そこまで追ってくる体力はないはずだ。  しろがねよし野と住宅街を挟む道路には、未だに車が通っていなかった。  男達も洋平達と同じように、道路を横切って追いかけてきた。  大勢の人混みをかき分けて、しろがねよし野を一気に突き抜けてゆく。  後ろから、通行人に対して「どけこらぁ!」と怒鳴っている男達の声が聞こえた。  後ろの様子を見ると、通行人が男達に道を空けていた。子供の頃に小学校の図書室で見た、絵本のようだった。モーゼの十戒のごとく、人の海が割れている。  彼等は怪我をしているとはいえ、少女の腕を引きながら走っている洋平よりも速い。だが、出血や怪我のせいか、足取りはおぼつかない。  彼等の体力が切れるまで逃げられるか。それとも、捕まってしまうのか。  いっそ、立ち止まって戦うか。一瞬だけ、洋平の頭にそんな考えが過ぎった。  洋平は、暴力に関しては素人だ。格闘技の経験もなければ、暴力の渦中に身を置いたこともない。大学生の家に不法侵入した時も、不意打ちで軽傷を負わせて被害者の闘争心を削ぎ、屈服させただけだ。戦って平伏させたわけではない。  自分は強くない。超能力のような圧倒的な力に憧れる、ただの弱者。  ──でも、今のあいつらの状態なら……。  浮かんだ自分の考えを、洋平は頭から振り払った。あいつらは暴力の渦中で生きている男だ。重傷を負った状態での暴力抗争も経験があるだろう。そんな奴等に、自分が勝てるはずがない。  加えて、もし、この周辺にあいつらの仲間がいて、闘争に加わってきたら。  少女を守りながら戦う自分に、勝ち目などない。  ここは逃げの一手だ。そう判断し、洋平は必死に走った。  洋平に腕を引かれている少女は、すでに息を切らしている。  しろがねよし野を抜け、国道に出た。片道三車線の道路。  信号は赤だった。しかも、車の通りも多い。とても横切ることなんてできない。  後ろを振り向いた。男達が迫ってきている。信号が青に変わるのを待っている時間はない。  少女は、かなり息を切らしていた。運動はあまり得意ではないのだろう。だが、今ここで、彼女の体力を気にしている余裕はない。  洋平と男達との距離は、約十~十五メートルといったところか。立ち止まってはいられない。  ここから国道を渡ることは諦め、洋平は国道沿いの歩道を西に向かって走った。次の信号が青だったら国道を渡って大通り方面に向かう。でなければ、このまま走り続ける。  少女の腕を引く自分の左手に、かなりの重みを感じる。彼女には、もう、走る体力など残っていないのだろう。    後ろの男達の足も遅くなってきている。出血と怪我で、かなり体力を消耗しているようだ。  次の信号が見えた。青い光が点滅している。ギリギリ渡れるか、といったところだ。ここを自分達が渡れたとしても、男達は渡れないだろう。彼等がここまでくる頃には信号は赤に変わり、多くの車が行き交うはずだ。  つまりここが、逃げ切れるかどうかの分かれ目。 「渡るぞ! なんとか走れ!」  自分も息を切らしながら、洋平は少女に声を掛けた。腹の底から張り上げた声だった。実のところ、洋平の体力も限界に近い。ここまで少女を引っ張りながら走ってきたのだから。  洋平の呼びかけに、少女は息を切らしながら目を見開いた。頷くといった反応はない。どこか不思議そうな目で洋平を見ていた。  横断歩道に一、二歩踏み出したあたりで、信号は赤に変わった。すぐに、車道側の信号が青に変わる。  なんとか横断歩道を渡り切った。洋平達が渡るのを待っていた車達が、走り出した。  男達は、洋平達とは反対側車線の歩道に取り残されていた。通りゆく車のエンジン音でよく聞こえないが、何か怒鳴っている。「待て」とでも言っているのだろう。  待つわけがない。  洋平は相変わらず少女の腕を引きながら、大通りに向かって走った。息も絶え絶えで今すぐ座り込んでしまいたかったが、信号が変わったら男達がすぐに追いかけてくるだろう。立ち止まるわけにはいかない。  後ろから聞こえてくる少女の呼吸も、かなり荒かった。  足がもつれるほどフラフラになりながら走り、ようやく、大通りについた。  しろがねよし野ほどではないが、人通りが多い。  街路樹が立ち並ぶ大通りはしろがねよし野ほど明るくはないが、周辺のビルから目映い光が放たれている。  ここも、週末を楽しむ人々で賑わっていた。  後ろから男達が追ってくる気配はなかった。レーダーを広げて周囲の様子を確かめたかったが、今の洋平には、そんな余裕などなかった。  すぐ近くに、地下鉄大通駅の入り口がある。  体力を限界まで使い果たした洋平は、精根尽き果て、その場に座り込んだ。  まだ寒い季節に似つかわしくない大量の汗が、ポタポタと流れ落ちている。洋平の顔から落ちた汗は、雨のような染みをアスファルトに作った。  なんとか逃げ切れた。守り切れた。  安堵した洋平は、ようやく、掴んでいた少女の腕を離した。
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