第四話 何もない者同士が、逃げてきて、ここまで来て

1/1
前へ
/52ページ
次へ

第四話 何もない者同士が、逃げてきて、ここまで来て

 暴力団の男達を、なんとか振り切れた。  地下鉄大通駅付近の人通りの多い歩道で、洋平は力尽きたようにその場に座り込んだ。  まだ寒い季節に似つかわしくない大量の汗が、額から流れ落ちている。洋平が座り込んでいるアスファルトには、雨でも降ったような染みがついていた。  逃げ切れた。守れた。守り切れた。  自分が成し遂げたことを、胸中で繰り返す。戦うことなどできない弱い自分でも、この少女を守り切れた。深い安堵と達成感が、洋平の心を包んでいた。それはまるで、自分が抱え続けている後悔を少しだけ癒やすように。  呼吸が落ち着いてきて、洋平は、顔を上げて周囲を見回した。  大通りを歩く、週末を楽しむ人々。彼等は、こんなところで座り込んでいる洋平を、変な物でも見るような目で一瞥していた。すぐに目をそらし、避けて通り過ぎてゆく。  一緒に逃げてきた少女が、目の前でしゃがみ込んだ。その大きな目で、洋平の顔を覗き込んでくる。 「大丈夫なの?」  少女の額にも、こんな季節に似つかわしくない汗が浮かんでいた。前髪が額に張り付いている。自分と同じ年頃のはずなのに、妙に艶っぽい。 「なんとかな。足がガクガクだけど」  言葉の通り、洋平の足は膝から震えていた。疲労と、緊張と、恐怖で。  恐かったのだ。また守れないかも知れない、ということが。自分が弱いということが。 「もう話しても大丈夫なら、教えて。どうして、私を連れて逃げたの? どうして助けてくれたの?」  少女と目が合った。艶っぽい少女の、気の強そうな目。  それなのに、その目はどこか寂しそうだ。  洋平は少女から目を離し、顔を伏せた。  目の前にいる少女は、文句なく美人だ。そんな彼女と目を合わせているのが、なんとなく照れ臭かった。同時に、彼女の寂しそうな目を見ていると、なんだか心が痛かった。 「お前、あの辺りで売春(ウリ)でもやってたんだろ?」  目を逸らした洋平の口から、ぶっきらぼうな声が出た。 「まあね」 「少しは考えて行動しろよ。警戒心とかないのか? あんなところで派手に売春(ウリ)なんてやってたら、目ぇ付けられるに決まってるだろ」  洋平は、他人に説教をできる生き方などしていない。それは自分でも分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。初対面の、名前も知らない少女。そんな彼女でも、見捨てられなかった。守りたいと思った。そんな心情に操られるように、勝手に体が動いた。  まるで、子を守る親のように。  親のように、子を心配する言葉が口から漏れる。  もっとも、洋平自身は、親に守られたことなど一度もないのだが。 「えっと……じゃあ、何?」 「なんだ?」 「あんたは、ただ意味もなく私を助けてくれたの? あの男達の敵対勢力とかでもないのに」 「俺のどこがヤクザに見えるんだよ?」 「まあ、そうだけど。本当にそれだけなの?」 「そうだよ」 「……」  少女が沈黙した。何も言わず、口を閉ざしている。  沈黙に気まずさを感じて、洋平は顔を上げた。  再び、少女と目が合った。綺麗な顔をした、艶っぽい、気の強そうな少女の顔。その目は、明らかに怒っていた。 「馬鹿じゃないの!?」  気の強そうな顔立ちによく似合う、気の強そうな罵倒が飛んできた。  思わず洋平は、目を見開いた。 「あんた、あのまま捕まってたらどうなってたと思う? ただじゃ済まないよ!? 下手すれば殺されてたんだよ!?」  座り込む洋平と大声で怒鳴る少女は、通行人の注目の的となっていた。もっとも、通り過ぎてゆく人々は「関わらないようにしよう」という気持ちを顔に出して素通りしてゆくが。 「それはお前だって同じだろ。あのままだったら、どんな目に遭ってたか」 「私のはただの自業自得! 自分の行動の結果なんだから! でも、あんたは──」  唐突に、少女の声が止まった。驚いたように目を見開き、自分の口元を素早く押さえた。  まさか、あの男達が追ってきたのか!?  洋平は自分の後を振り返った。だが、そこには、洋平達から目を逸らして歩く通行人しかいない。  洋平は再び少女の方を向いた。直後、罵倒が飛んできた。 「あんた、臭い!」 「は?」 「臭いの! あんた! 臭いっていうか、完全に悪臭! 公害レベルなんだけど!」  言われて、洋平は、袖口を自分の鼻まで持ってきた。スンスンと臭いを嗅いでみる。自分の臭いはよく分からない。  嗅いだ後、つい、首を傾げてしまった。 「あんた、お風呂に入ってないの?」 「えっ……と……」  風呂には入っていない。最後に入ったのはいつだったかと、記憶を遡る。不法侵入していた学生のマンションを出る前だから── 「たぶん、二十日くらい入ってないと思う」 「うっわ! 最悪!」  少女は立ち上がり、洋平の腕を掴んだ。そのまま引き上げる。立てということらしい。  重い足に力を入れて、洋平は立ち上がった。 「とりあえず、私の家に来なさい! お風呂に入れるから! 臭いし汚いし!」  怒ったような顔で吐き出された、少女の言葉。  は?──と洋平は、頭に疑問符を浮かべた。来なさい? 私の家に? え? は? 「何言ってんだよ!? お前! 家って!? 親は!?」  それは、洋平にとっては当たり前の疑問だった。  普通の子供は、親と一緒に暮らしている。親のもとで暴力など受けることもなく生活し、面倒を見てもらう。怯えることも食べる物に不自由することもなく生きてゆく。  自分自身は普通の生活を送れなかったが、それくらいの常識は、洋平にだって分かっていた。分かっているつもりだった。  知らなかったのだ。暴力や虐待がなくても、不幸なことがあるなんて。  少女は、その気の強そうな顔を少しだけ歪ませた。心が痛い。そんな顔だった。  彼女の右手は、洋平の腕を掴んでいる。空いている方の左手で、自分の胸を押さえた。心の痛みを訴えるような表情に、笑みが浮かんだ。明らかに、自棄的な笑みだった。  見ている洋平の胸に針が刺さるような、笑みだった。 「大丈夫だよ。うち、親なんていないようなものだから」
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加