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「ユキ!」
気づけば、倖弥はスタジオのマイクの前にいた。ここに来るまでの記憶が曖昧だ。思い出そうとしても、頭の中は真っ白で思考が停止する。
メンバーの演奏は始まっていた。それに合わせて歌わなければいけないのに、完全に上の空だった。
「何やってんだ、おまえ!」
演奏を止めて、怒りを露わにした聖二は、倖弥の肩を掴んできた。その行為になぜか嫌悪感を抱き、彼の手を払いのけてしまう。
聖二は、すっと表情を変え、冷めた瞳でこちらを見据える。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え。溜められても迷惑だ」
怖いくらいの静かな低い声だった。それでやっと我に返ったように、自分のしたことに気づく。
「ごめんなさ……」
「ユキ、今日は抜けろ」
「え……」
「やる気のない奴は必要ない」
ばっさりと切り捨てるように聖二が言えば、トシが場を和ませるかのようにフォローに入る。
「誰だって調子悪い時はあるよ。次は大丈夫だよね、ユキちゃん」
だが聖二は、険しい表情のまま言葉を続けた。
「今回だけじゃない。ここしばらくずっと集中してないだろ。わからないとでも思ったか?」
聖二の言うとおりだった。反論できない。自分の愚かさに、倖弥は唇を噛んで拳を握った。
「頭冷やしてこい。ほら、始めるぞ」
そのかけ声と共に、メンバーの演奏が始まった。
居場所がなくて、倖弥はスタジオから出て行くしかない。最低最悪な自分が嫌になった。
痛感する。聖二のことだけで、こんなにも仕事に集中できなくなるなんて思ってもみなかった。今まで聖二が他の女性と付き合っていても、自分だけは特別なんだと強い心を持ち続けることができた。
だけど、聖二から彼女の妊娠と結婚することを報告されて限界に達したのだ。
毎日、彼女と子どもがいなくなることばかり願っていた。そんな自分が恐ろしくて、辛くて悲しくなる。
倖弥は、気持ちを抑えることができなくなっていた。
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