④螢川

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 若いときは隣にいる夫と愛しあって、余計なものをそぎ落とすことも多かった。  でも今日は違う。  カナはひとりひっそり起き上がり、いつも工房で着ているシンプルな普段着に着替える。  そのまま初夏の夜空の下、外へと出た。  カリヨンの鐘も鳴らない、静かな静かな古都の真夜中。カナは家を離れ、一の坂川へ向かっている。  家族四人で歩いて帰った道を、逆戻りするようにしてカナは川沿いを歩く。  手を繋いだ古い石橋に辿り着く。人気のない深夜の川沿い、そこはさらに無数のホタルが飛び交っていた。 「姉さん、忍お兄さん」  そこに立って、カナはもう泣いていた。  今夜、カナがそぎ落とすのは、この涙だった。  ほたるが飛ぶ数だけ、花南の中にいままでのことが浮かび上がる。  秘密が運んできた哀しみも怒りも喜びも……。  ほたるの数ほどに、たくさんのことが通り過ぎていった。  もうお終い。あなたたちの秘密はもう終わったの。  残っている秘密はわたしと耀平さんが守っていく。  航は、わたしと耀平義兄さんと生きてきた息子なの。  血じゃないの。長い長い歳月なの。わたしたちだけの濃密な歳月なの。  それが、義兄と航とわたしの、『血』。 「花南」  その声に驚き、カナは深夜の川沿いで振り返る。  そこにワイシャツとスラックス姿の耀平がいた。 「兄さん、どうして」 「着替えている時に俺も目が覚めた。工房へ行くのかと思ったら、家を出て離れていったので慌てて追いかけてきた」  そんな義兄が、優しく微笑みカナを見つめている。 「そんな予感がしていたんだ。おまえ、明日、ガラスを吹くんだろ」  なにもかも。なにもかもわかってくれていて、そうあなたは、いつもわたしをわたしのままにして素知らぬ顔。
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