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彼女は潔の心を無垢にするけれど、ガラスのように透明にはならない。
何故なら『哀しみ』の色を常に滲ませているからだ。
倉重花南もずっと携えてきたことだろう。
でもいつか、それを無垢にしようと、密かに構えていたはずだ。
『いまだ』。そう感じた瞬間が訪れたのだろう。そして彼女はガラスの川に、螢の魂を送り出したのだ。
現物を見なくてもわかる。きっとそうだ……。
「でも親方。行かないのでしょう。いつもそう。弟子の展示会に出向いたことはないですよね。まず、この工房を留守にすることがありませんもんね」
「そうだね。工房を離れていると落ち着かないよ。空港に到着しても小樽に帰りたくなっちゃうんだ」
ほんとうのことだ。飛行機に乗ろうと新千歳空港まで行くと、もう快速エアポートに戻って小樽に一直線、帰りたくなる。
そこに妻を置いているからだ。幻影だけ残している妻さえも消えてしまったらと思うと恐ろしくなる。妻の気配と残してくれた意志をそばに、永遠にガラスに向かっていたい。彼女の願いを日々、叶えてあげていたい。
『潔君のガラスが好き。大好き。このオブジェ、一生割らないよう大事にするね』
婚約の証に、真っ赤なガラスを被せた切子のオブジェをプレゼントした。柱のようなガラスに、彼女のためだけに編み出した図案で、丁寧に切子をいれたガラスオブジェ。
彼女のかわりに、いま潔が大事に手入れをして飾っている。
それのそばに常にいたい気もちが何十年も……。だから潔は、小樽から遠く離れた場所には行きたくない。何日も家を空けたくないのだ。
その理由を知っている者は僅かだ。
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