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 『婆ちゃんとさ、来週の土曜日業者さん呼んで、 の引き出しを開けようってなったのよ。 そうそう、爺ちゃんの忘れ物ね。 帰ってこれる? 大したものは入ってないと思うけど、 あんたのおじさん達は物見高いわ。 わざわざ岐阜と大阪から帰って来るって』 普段は自分の母親と夫で、静かに暮らす一軒家。 そこに違う音がするのを待ち焦がれるように、 携帯越しの母は、愉しげだった。  母方の祖父、省吾(しょうご)爺ちゃんが亡くなったのは僕がまだ幼稚園の頃だ。 大輔おじさんと洋輔おじさんに続く、3人兄弟の末っ子。 それも待望の女児であった母には、とりわけ優しく、声を荒げる事もなかった祖父。 そんなだから、母は時折思い出して声を詰まらせることもある。 だが、これだけ時が経てば、法事だ何だと、離れて暮らす息子を呼び寄せる理由の1つだ。 そして例の引き出しとは、祖父の箪笥(たんす)の三段目の事。 一番上は開戸。その下二段には鍵は無いが、最後三段目には鍵が付いている。 その鍵をしっかりとかけ、鍵を行方不明にさせたまま、祖父は病であの世へと旅立った。 そこから15年。いまだ鍵は見つからず、 中に何が入っているのか、祖母はおろか誰も知らない。 いつしか愛情を込め、 “爺ちゃんの忘れ物”と言うようになったその引き出しを、とうとう開ける日が来たらしい。 『見たことない?どこでも開けちゃう有名な人らしいのよ。で、帰って来れるの?』 返答に困る僕をよそに、解錠業者はテレビにも出たことがあるだとか、熱弁をふるう母。 だが、高速バスで5時間ほどの実家には、 先月、年明けに帰ったばかりだ。 「その日はバイトの、、」 『土曜日はいつも入ってないでしょ?』 「大学のサークルが、、」 『映画研究会?辞めたっていってなかった?騙されないわよ』 一人息子の僕の事を、母は大方把握している。 「、、じゃあ帰れる?なんて疑問系にしないでよ」 『はは。お母さんの癖なのよ。 あんたの好きなもの作って待ってるから、帰っておいで。あ、そーだ、(はな)ちゃんも一緒に来る?』 母の問いかけと共に、僕のベットで漫画を読んでいた彼女を振り返る。 花はぼんやりと、でもその内容に気付いたのか、浅く笑うと首を横に振った。 「花はやめとくって。いやいや、別に喧嘩とかしてないから。ふつーに用事だと思う」 何度か会った母の、あの賑やかしいキャラを思い出したのだろう。 花は僕の後ろで忍び笑いをし、小さく肩を揺らした。 「引き出し、開けちゃうんだ」 母との電話を切ると、本を投げ出した花が、僕の背中に後ろから飛びつく。 その手がイタズラに僕をくすぐり、思わず口から笑いが溢れた。 「、、そう。専門の人呼んで開けるんだってさ。 わざわざ長距離バスに乗って、それに付き合えって訳」  箪笥の話は、何度か僕の実家を訪れた事のある彼女も、実際に見て知っていた。 「大掛かりだね。 、、開けないロマンもある気がするけど」 「全く同感。、、ね、本当に一緒に行かない?」 「、、うん、、やめとく。 行っても良かったんだけど、蒼斗(あおと)が1人で行きたそうだったから」 「僕が?そんなことはない。 花がいたらバスだって退屈しないし。 、、、何でそう思うの?」  同じデザイン学部の花とは、入学してすぐ付き合い出し、春には丸3年を迎える。 ベリーショートの黒髪に、一重ながらたっぷりと大きな瞳、飾らないボーイッシュな服、メイクも薄っすら。 小柄な少年にも見えてしまう花のことを、 僕は当初、男子学生だとさえ思っていた。 「深い意味はないから、気にしない気にしない。 結婚もしてないんだから、たまには1人で帰っておいでよって話」  花は時折能天気キャラを装おうが、 本当はとても思慮深く、勘の鋭い人間だ。  実家で執り行われる解錠の儀に、僕が何かしら胸騒ぎを覚えている事を、どことなく感じとったのかもしれない。 「、、わかった。お土産、何が良い?」 「蒼斗が今、思い浮かべたやつ」 おそらくそれは、僕の地元の、クリームの挟まった固い煎餅菓子なんだろう。 以心伝心がやたらと多い僕等は、 大学の仲間に、熟年夫婦みたいだと揶揄(やゆ)されてしまうこともあるくらい、自然体でいられる間柄だ。 「私、もう少ししたら家に帰るから、バスチケ、今取っといた方が良くない?蒼斗きっと忘れちゃうでしょ。取り損ねたらおばさん悲しむよ」 「あぁ、だね」 都心から少し離れた家で、両親と弟2人と暮らす彼女。  今の僕にとっては、花と離れる寂しさ大なり、 母の悲しみなのだが、仕方なくスマートフォンでバスチケの予約を取ることにした。 祖父の記憶は殆ど無いが、 写真で見る祖父は、あの時代の人にすれば、 結構な洒落男だった。 いつもハンチング帽を目深にかぶり、小降りのスカーフを首にした正統派のイケメン。 その日の明け方、一瞬夢に出てきた祖父は、 嬉しそうに目を細めたものの、その顔は孤独な影に縁取られていた。    
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