九話

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九話

「エドガー……もうねたはずじゃ」 「何をなさってるんですかと聞いたんです」 エドガー氏が一歩踏み出します。 「何故彼は裸なんですか。何故縛られてるんですか。何故泣いてるんですか」 「これには訳が」 「そのみっともないザマはなんです。何故裸なんです。何故丸出しなんです。小便くさいですね。飲ませたんですか。僕の大事な人を、尿瓶代わりにしたんですか」 「パトロンになれと(こいねが)ったのはお前じゃないか!」 暖炉の火影が踊り狂い、エドガー氏が利き手に持ったペインティングナイフがきらめきます。 伯爵が萎えた陰茎を引き抜くのと、エドガー氏のナイフが腹に刺さるのは同時でした。 「エドガー!」 エドガー氏は貴方の戒めを解き、瀕死の父親を顧みず逃げ出しました。伯爵はまだ息があります。 「気でも違ったのか、実の親父になんてことするんだ!」 別室のドアが開け放たれました。エドガー氏と貴方が兼用で使っている、屋敷の外れのアトリエです。 貴方は裸にガウンだけ羽織っていました。 エドガー氏は激高し、ペインティングナイフをめちゃくちゃに振るい、キャンバスを切り刻みました。 豚、マングース、セーブル、イタチ、牛、馬、クロテン……立派な拵えの絵筆が乱雑にばら撒かれ降り注ぎます。貴方がお零れに預かってきた画材。 貴方が炭で描いてた頃から、エドガー氏には申し分ない絵筆と画材が与えられていました。 「気が違ったのはそっちだろ。お父様に抱かれてたのか?何年前から」 「お答えするよ。最初から、だ」 無造作に赤毛をかき上げ、なんでもない事のように虚勢を張って言いました。 「お情けでおいてもらってるんだから、あれ位当然だろ」 エドガー氏がうろたえました。 「なんだよお前、自分が頭を下げたから居候が許されたとでも思ったのか」 「僕は」 「お生憎様。俺は最初からあの人の玩具、奴隷だった。あの変態にガキの頃からどんな事されてきたか聞かせてやろうか」 「やめろ聞きたくない」 「だけど息子のお前には聞く義務があるんじゃないか?あの人が俺の口を尿瓶にしたのは一度や二度じゃない、犬の糞入りスープの方が余っ程上等に思える味だぜ、腕を縛んのはシルクのハンカチときた、親子で好みも似るんだな!アレでも一応痛めねえように気ぃ遣ってくれてんだとさ、泣かせるじゃねえか」 力ずくでナイフを奪いキャンバスに切り付け、画架を蹴倒します。 「伯爵が俺を引き取ったのはお前にほだされたからじゃねえ、最初っからろくでもねえ下心があったんだよ!耳かっぽじってよーく聞けエドガー・スタンホープ次期伯爵殿、お前がスランプだの才能だの贅沢な事でぐだぐだ悩んでる間に俺が何されてきたか、才能が人を幸せにすんのが事実なら何で俺はここにいるんだ、てめェらくそったれ貴族のおもちゃにされなきゃいけねーんだよ!」 九年間、溜めに溜め込んだ怒りが爆発しました。 せっかく耐えたのに、耐えきれると思っていたのに、エドガー氏が全部ぶち壊しました。 「絵なんてどうでもよかった、才能なんざいらなかった、欲しけりゃくれてやるよいくらでも!」 縋り付くエドガー氏を蹴倒し、顔面に唾を吐き捨て、怒り狂って叫びます。 「何で言ってくれなかった」 「毎晩テメエの親父にケツの穴ほじられてるんで助けてくださいってか?」 「ただ君を助けたかった、ずっとずっと憧れていた、君に追い付く為だけに全部全部捧げたのに!」 「時間?金?まさか童貞じゃねェよな、捧げた見返り期待できんのは相手が貰って嬉しいもんだけだぞ」 口汚く罵り高笑いすればエドガー氏の顔が絶望と虚無に染まり、がっくり首を折りました。 「僕は、君を」 「エドガー……お前ってヤツは……」 告白を遮り、腹からの出血が止まらない伯爵が乗り込んできました。大量の脂汗に塗れた顔は酷く青ざめ、目だけがぎらぎらと憎悪に煮えたぎっていました。 「お前が来てからエドガーはおかしくなった。この疫病神め」 伯爵は鉄製の火掻き棒をひっさげていました。その先端が床を擦り、風切る唸りを上げて貴方を狙います。 「危ない!」 間一髪、エドガー氏に突き飛ばされます。 代わりに火掻き棒が直撃したのは貴方が使っている未完成のキャンバスで、使い込まれた画帳がのっかっていました。 火掻き棒に叩き落とされた画帳が床をすべり、高速でページが繰られていきます。 たまさか開かれた帳面に描かれていたのは、貴方のお母上の肖像でした。 「オリヴィア?」 「なんでお袋の名前を……」 とても嫌な予感が過ぎりました。伯爵の目が動揺に揺れ、ブツブツ独り言を呟きます。 「そんなはずない。確かに追い出した」 元メイドの母は嘗て貴族の屋敷に仕えていた、そこの次男坊に孕まされた。スタンホープ伯爵の兄は早逝してる。 「オリヴィア。赤毛。言われてみればよく似てる。迂闊だった、何故気付かなかった。倅を上手く唆して、屋敷を乗っ取る魂胆だったんだな?」 「待ってくださいお父様、話に付いていけません。オリヴィアとは誰です?彼女と何があったんですか」 「安心しろエドガー、お前こそ正統なるスタンホープの後継だ。庶子の兄に爵位など」 アトリエに絶叫が響き渡り、無地のキャンバスに返り血が飛び散りました。 「はは、は」 腰砕けにへたりこんだ弟の前で、貴方はナイフを振り上げ振り下ろし、実の父をめった刺しにしました。 もうなにもかも終わりです。貴方は父殺しの烙印を捺され監獄に送られます。 「あー……すっきりした」 貴方はペインティングナイフを捨てました。伯爵は目をひん剥いて息絶えています。蹴飛ばしても反応はありません。もっと早くこうしていればよかったとさえ思いました。 ふと右を向けば、もとは純白の布に斑の血痕が飛び散っています。布が掛けられたキャンバスはこれだけでした。 一体何の絵だろうと興味をそそられ、布を払うまぎわに画帳を押し付けられました。 「消えろ下民」 エドガー氏が差し迫った剣幕で貴方を窓辺に押しやり、脱出を急き立てます。 「消えろって、明日は結婚式じゃ」 「お前のせいでスタンホープ伯爵家はおしまいだ、どこへなりとも消え失せろ、金輪際顔を見たくない!」 「……はっ」 所詮そっち側かよ。 窓枠を掴んで怒鳴り散らすエドガー氏に白け、画帳を小脇に抱えて庭に降り立ち、一目散に駆けだしました。 ええ、貴方は悪くない。 たとえ人殺しで親殺しでもね。 あにはからんやこの後起きた展開には一切関与してませんし、意外な顛末も知らぬ存ぜぬでしょうね。
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