二話

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二話

さてジョージィさん、貴方は今宵偶然にも驚異の部屋に迷い込まれた。 パブの帰り道、千鳥足で路地裏を徘徊していた所までは覚えている。野良犬に吠えられ、小便をひっかけられた事も? ツイてませんねえ、どうりで外套が臭かったわけだ。 貴方が此処を訪れたのには必ず意味がある。全知全能の神の思し召し、あるいは霊魂の導き? くだらない、ですか。全く心当たりがないと?ははん、ひょっとして当世流行の無神論者ってヤツですか。 まずはお掛けくださいジョージィさん。 何、お手を煩わせはしません。僕が伺いたいのは貴方の数奇なる半生です。 驚異の部屋が展示するものは有形無形問わず、貴方の記憶もまた此処に召し上げるに値する。 僕の見立てに狂いはありません、どうぞ遠慮なくお話してください。 ほらまた勝手に出ていこうとする!わからない人ですねえ、させませんって。出口をさがしたところで無駄です、扉は指ぱっちんで消しちゃいました。奇跡の采配(さいはい)はお手の物。 どういうことか教えてあげましょうかジョージィさん、貴方は驚異の部屋の虜になったんですよ! 僕の望む話をしない限り永遠に此処から出られません、一生囚人として過ごすのです! もっとも、貴方にはそれがふさわしいかもしれませんね。 どういうことだって? 笑止、これは傑作! 僕の言葉の本意はご自身が一番よくおわかりでしょうに、ジョージィ・ポージィ・プティング・パイ、貴方は実に罪深い人殺しだ! さあ、もういちどお掛けなさい。深く深く、地獄まで沈みこむように深く……よろしい。 おっと、手は前に。やっぱり……懲りない人ですねえ、展示品は持ち出し厳禁ですよ。そんなにお金に困ってるんですか? ご存じですかジョージィさん、中世の泥棒は腕を切り落とされたそうですよ。脅し?そうとってもらってもかまいません、手癖の悪さを矯正できないなら去勢するしかありませんもんね。 ちょっと失礼。ふむ……独特の匂い。テレピン油の匂いかしらん?爪に挟まってるのは乾いた塗料の粉末、指には固い筆ダコ。 貴方は絵描きさんだ。 どうですどうですシャーロック・ホームズも舌を巻くこの推理!見ればわかる?興ざめなことおっしゃらないでくださいな。 一応断っておきますと、僕は神父じゃありません。此処は告解室でもないからして、懺悔や贖罪は求めません。 裁きはしない。 罰しはしない。 それは僕の役目じゃない。 何卒ありのままの胸の裡をお話しください。 あらま、どうなすったんです? 目がきょときょと泳いでらっしゃる。汗もかいてますねえ、外套をお脱ぎになりませんか。質に流したりしませんよ、ていうか売れないでしょこんなボロ。 あててごらんにいれましょうか。 ご自分の名前が思い出せないんじゃございませんか。 んふ、図星? 仕方ありませんね、貴方が何処の誰か思い出せるようにお手伝いしてさしあげますよ。 ほら見えてきた……水晶玉の中。 貧民街の片隅、場末の娼館。一階と二階を繋ぐ階段の半ばに掛けた、くすんだ赤毛の少年に見覚えございませんか?痩せっぽちで貧相な……。 貴方ですよ貴方。 右手にはちびた炭、左手にはセピア色の古新聞。頭上の部屋からは甲高い喘ぎ声とベッドの軋みがひっきりなしに響いてくる。 思い出しました? ここは貴方の家。 貴方は娼婦の私生児として産声を上げました。 とはいえ、お母上はもとから娼婦だったわけではありません。元は貴族の屋敷に仕えるメイド……よくある話、次男坊に孕まされたのです。 さても気の毒に、天涯孤独のメイドは売春婦に身を落としました。 お母上は乳飲み子を養うため、貴方が物心付く前から体を売っていたのです。 貴方は母の喘ぎ声を子守歌に大きくなった。 お母上の仕事中は階段に腰掛け、事が終わるまで辛抱強く待っていました。 さて、角部屋のドアが開いてストールを巻いた年増の娼婦が出てきました。 ひっ詰め髪をかき上げ、蓮っ葉に煙管をふかし、邪魔くさげに通り過ぎざま貴方の手元を覗き込みます。 「上手いじゃん」 その時貴方が描いていたのは玄関先に飾られた花瓶でした。吝嗇家で有名な女主人がそれはそれは大事にしていた、優美な花瓶。 びっくりしましたね? 心中お察しします、他人に褒められるのは生まれて初めてだったんでしょ? 実のお母上すら貴方を褒めることはめったになかった。 いてもいなくてもどうでもいい、邪魔くさい穀潰しに過ぎませんでしたもんね。 貴方の横に膝をそろえて屈みこみ、娼婦が愉快げに耳打ちしました。 「ね、アタシを描いて。お駄賃あげるからさ」 彼女こそ最初のお客様、一人目のモデル。貴方が描いた絵は彼女の期待を遥かに上回る出来栄えでした。 これを皮切りに注文が殺到しました。 一人目の娼婦が、貴方に描いてもらった似顔絵を仲間に見せびらかしたのです。 娼婦たちはすごいすごいと幼い画伯をほめそやし、常連客たちも面白がって便乗します。 暖炉からちょろまかした炭と古新聞じゃあんまりだからと、気前の良い客の一人が画帳(クロッキーノート)と鉛筆を贈りました。 貴方は全力で期待にこたえた。 毎日毎時間てのひらを真っ黒に汚し、望まれるがままモデルの肖像を描き続けた。 娼婦と客の間じゃ互いの似顔絵をこっそり交換するのが流行りました。 お金を稼ぐ手段を得た貴方は、娼館の中だけじゃ飽き足らず、人通りの多い往来で客を募り始めます。 一枚、二枚、三枚……三十枚! 裏返した帽子の底に次々コインが投げ込まれました。 周囲には人垣が築かれ、物見高い野次馬たちが続々集まってきます。皆しげしげと貴方の手元を覗き込み、ある者は髭をねじって唸り、ある者は感心します。 「写実的だな」 「この子は才能があるぞ」 「粗末で汚い身なりだが、いずれ大成するに違いない」 一日の仕事を終える頃には浮足立ち、娼館へとひた走りました。たんまり稼いで帰れば、お母上がきっと喜んでくれると信じて。 ところがその頃、貴方のたった一人の家族であるお母上は寝込んでいました。 毎日浴びるように飲んでいたジンの障りです。 貧困の原因は怠惰、故に自業自得だというのが金持ちどもの口癖でした。 実際は……ええ、よくご存じでしたね。 ホガースの諷刺絵を例に出すまでもありません、黄金のビールで豚の如く肥え太る金持ちに対し貧乏人は粗悪なジンで体を壊すのが常。貧民街の住民が安酒をかっくらうのは、それが現実逃避の手段であるからです。 貴方は似顔絵描きに努める傍ら、酒浸りのお母上の世話に励みました。 お母上を良い医者に診せるには金が足りない、全然足りない。 早くせねば手遅れになりかねません。ジンに蝕まれた人間の末路はいやというほど見てきました。 馴染みの娼婦は「梅毒を患うよりマシだよ、ありゃ体中に醜い瘡ができるんだ」と慰めを口にします。 肝臓を病んだお母上は日に日に痩せ細り、遂にはベッドから起き上がれなくなりました。 最愛の母がこの世を去る日が近付いている現実を断じて認めたくない貴方は、彼女に付き添い看取るよりも往来に居座り、似顔絵の依頼人を求めました。 それもまた現実逃避。 責めはしません。 当時の貴方はまだ幼かった。 病み衰えたお母上を目の当たりにして逃げた所で、何の罪があるというのでしょうか。 貴方は往来の隅に居座り、片手に鉛筆を持ち、真っ白な画帳を広げました。 レースとフリルで縁取った日傘を回す貴婦人、燕尾服をりゅうと着こなす恰幅良い紳士、プレゼントの包みを抱えた少女。 道行く人々はとても忙しく幸せそうで、画帳にあてた鉛筆の先端に、知らず圧がこもります。 今しも砂埃を蹴立て、二頭立ての馬車が止まりました。 「乞食に近付いてなりませんエドガー様、お召し物が汚れますぞ」 「彼は絵描きだよ」 運命の歯車が廻り出します。 スライドした馬車の扉から降り立ったのは小さな貴公子でした。
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