五話

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五話

「今日の食事は口に合わなかった?言ってくれたら替えさせたのに」 「ほっとけ」 「待って、袖に血が……まさか」 エドガー氏は貴方のポケットを暴き、スープに混入していた硝子の欠片を没収します。みるみるエドガー氏の顔が険しくなりました。 「料理に入ってたの」 「どこ行くんだ」 「罰しにいく」 「余計なことするな」 「君は僕の家族なんだぞ、不当な扱いを見過ごせるか」 「犬の糞じゃないだけマシ」 犯人は料理長かメイドかそれ以外か……わかりません。どうでもいい。料理に異物を入れられるのはまだ序の口で、ベッドに針を仕込まれた事もありました。 「連中、俺が気に入らないのさ。イーストエンドの売女のててなしごだもんな」 鉄錆びた味が広がり、手のひらのくぼみに赤い唾を吐きました。幸い喉は切れておらず、口内の粘膜をちょっと傷付けただけですみました。 ひりひり疼く傷口を窄めた舌先でまさぐり、またも自分を避けて行こうとする貴方の肘を掴み、エドガー氏は意外な行動にでました。 「!?ッ、」 貴方を壁に押し付け、唇で唇を塞いだのです。エドガー氏の唇は生温かく柔らかで、赤い唾液が糸を引きました。 貴方が押さえ込まれた壁の上には、スタンホープ伯爵一家を描いた肖像画がかかっていました。 中央の椅子に掛けているのが伯爵、向かって右側にたたずんでいるのが他界した夫人、左側に直立している紅顔の美少年がエドガー氏です。 絵の中から睨み据える厳格な風貌に後ろめたさを覚え、震える手でエドガー氏を突きのけます。 「何するんだ」 貴方の襟元は乱れ、華奢な鎖骨が覗いていました。 エドガー氏は言いました。 「消毒」 漸く思い出しましたね。思い出したくなかった?はは……。 翌日、使用人が一人解雇されました。貴方に食事を運んでいたメイドでした。 何故? エドガー氏のスープにガラス片が混入していたから。 「誤解です旦那様、エドガー様のスープにガラスのかけらなんて入れてません、運ぶ前にちゃんと確かめました!」 ヒステリックな金切り声で抗議するメイドを一瞥、エドガー氏は口元にハンカチを当て血の染みを見せました。 「万一飲み込んでいたら、僕は死んでいたかもしれないね」 あり得ません。エドガー氏の自作自演です。彼は先日貴方から回収したガラス片を、何食わぬ顔でスープにまぜ、噛み砕いたのです。 貴方は全てを知りながら黙っていた。 メイドが解雇されたのち、貴方はこらえれきずエドガー氏に詰め寄りました。 「追ん出すだけなら怪我までする事なかったじゃないか、なんで」 「でも、君は怪我したろ」 振り返ったエドガー氏の顔には、真剣な表情が浮かんでいました。 「君が経験した痛みを知りたかった。じゃないと公平(フェア)じゃない」 エドガー氏は貴方と対等な関係になりたかった。 「ガラス入りスープは初めて飲んだけど、まずいね。珪素と鉄錆の味がする」 思えばこの時、貴方はエドガー氏に底知れない恐怖を感じたのでしょうね。 貴方たちは同時に美術学校に入学しました。デッサンの授業では毎回エドガー氏がほめられました。 「なあ知ってるか。アイツの親父、学校に多額の寄付をしてるんだってさ」 「どうりで下手くそのくせに贔屓されてるわけだ」 「次期伯爵さまを無下に扱えないってか」 エドガー氏のデッサンは凡庸でした。貴方の目にはそれがハッキリわかりました。 その頃からです、エドガー氏が歪んでいったのは。 彼は自身の実力が評価されない現実に鬱憤を募らせていきました。 「線が歪んでるぞ」 「デッサンが狂ってる」 「肌の塗りが雑だ。瑞々しさが感じられない」 貴方が絵を制作していると決まって後ろに立ち、欠点を論います。とはいえ、告げ口でもして不興を買うのは得策とはいえません。貴方が屋敷で暮らせるのは偏にエドガー氏の好意によるもの、身も蓋もない言い方をすれば貴族の息子の気まぐれ。 仮にエドガー氏の機嫌を損ねようものなら、路頭に迷うしかありません。 貴方はお母上の二の舞になりたくなかった。 貧乏はうんざりです。 せめて自分の棺代位は稼いで死にたい。 高尚な信念を持たず。 旺盛な野心も持たず。 そもそも貴方は絵が好きだったんでしょうか? 心から画家をめざしていたんでしょうか? 皆さん忘れがちですが、好きな事と得意な事は違います。 貴方はたまたま絵が上手かった、絵描きの才能があった。 でもそれだけ。 絵を描き続けたのは何故です?お金がほしかったから?周りの大人がほめてくれるから? 一ペニーも儲からず、誰にもほめられなければ描く意味がありません。 貴方にとって絵を描くことは生計(たっき)の手段に尽きます。それ以上でも以下でもない賎業。 食べるため。 生きるため。 ただそれだけの為に、生活の為だけに描き続けた。 正直におっしゃいな。 貴方、本当は絵が嫌いだったんじゃないですか?絵描きなんて金持ちの道楽だって、軽蔑してたんじゃないですか。 往来を行き交うひとびとに乞われるまま絵を描きながら、たかが似顔絵の為に金を払うなんて物好きなと、心の中で嘲ってちゃちな自尊心を保っていましたよね。 好きな事と得意な事が結び付かないのは悲劇と言うしかありません。それを利用するしたたかさが備わっていれば世間を渡っていけましょうが、生憎エドガー氏はそうじゃなかった。 彼の誠実は生粋だ。 貴方ほど器用にも狡猾にも生きられない。 神様は本当に意地悪だ。 白状なさいな、ホントはエドガー氏を馬鹿にしてたでしょ?初めて会った時から嫌いだった、そうでしょ? 金持ちはとかく忘れがちですが、貧乏人にもプライドがある。 貴方の場合、大人に施されるのはまだ耐えられた。ですが子供は……自分と同じ年頃の少年に同情されるのは耐え難い。 言い過ぎました、座ってください。貴方は悪くない。最初に言ったでしょ、僕は裁かず罰しない。 神ならざるこの身にそんな大それた権限は与えられていません、貴方が抑圧してきた本音がどうあれ……。 時に鈍感は残酷だ。 いい加減人々は知るべきです、博愛精神に育まれた善意が他者を傷付けることもあると。 貴方にしてみれば、エドガー氏の善良さは毒だった。 何故無能な人間がちやほやされるのか、教授たちに特別扱いされ持ち上げられるのか、彼を見るたび腸が煮えくり返ったでしょうね。 恵まれた人間は恵まれただけで罪なのです。 貴方は復讐することにした。エドガー氏の嫌味に表立っては反論せず、謙遜してみせたのです。 「助言どうも。俺はまだまだ未熟だな」 「子供の頃から一流の美術品に囲まれ、目が肥えたお前がいうのなら間違いない」 「教授たちはさすがにわかってるな。お前が一位に選ばれたのは実力だ。誇れよエドガー氏、伯爵もきっと喜ぶ」 全く酷いお人だ。貴方はそうしてちくちくちくちく、善意にくるんだ言葉の棘でエドガー氏を嬲った。 彼の嫉妬に気付かぬふりを装い、わざと罪悪感を植え付け、エドガー氏を追い詰めて行ったのです。 可哀想なエドガー氏。 その頃から奇行が始まりました。夜更けの屋敷から、授業中の学校から、たびたび抜け出してどこかへ消えてしまうのです。 同時にエドガー氏の絵に変化が兆しました。扁平で魅力に乏しかった絵に生命の息吹が宿り始めたのです。 凄腕の師に弟子入りしたのだろうと級友たちは噂しました。童貞を捨て一皮剥けたのだと、ゲスな勘繰りを働かせる者もいます。 潔く認めておしまいなさい。 貴方はエドガー氏を憎み、嘲り、蔑んでいた。 自分より劣ると見なし、馬鹿にしていた人間に追い越されるほど屈辱的な体験はありません。 絵の才能は貴方がエドガー氏に対し持ち得た、唯一にして最大のアドバンテージでした。 それを失ってしまったら、貧民街上がりの卑しい孤児に何が残るというのです? 思い上がっていたのは貴方の方です。 狂おしい嫉妬と焦燥が責め苛みました。 ふと気付けば画帳をめくり、エドガー氏の顔をしるし、それを鉛筆で上から塗り潰していました。 何度も何度も何枚も何枚も、隅から隅まで真っ黒に塗り潰します。しまいには芯が折れ紙が破け、大笑いしていました。 ジョージィ・ポージィ・プティング・パイ、男の嫉妬(エンヴィー)は見苦しい。 貴方はエドガー氏を憎んだ。 その整えられた爪を、柔く白くすべらかな手を、綺麗に磨き上げられた靴を、一番好きなものを失った人間に好きなものを描かせる残酷さを、貴方の才能を発見したのは僕だと威張る横顔を、伯爵に相対し家を出ると言いきった無知なる傲慢さを、弱者に施す高潔な精神と敵を排す苛烈な魂を、エドガー・スタンホープの全存在を憎んだ。 かくも運命とは残酷で人間は愚かな生き物、天上天下あらゆるものに序列を付けずにいられません。 エドガー氏が貴方に劣る人間なら、天才に至らぬ秀才どまりなら、その報われない努力を憐れんでぬるく愛でていられたのに。 彼が足止めしなければ母の死に目に間に合ったのに。 「畜生」 乱暴に紙を破り取り、握り潰して壁や床に投げ付け、それが跳ね返って顔や体に当たっても、ベッドに独り腰掛けた貴方は破滅的な哄笑をやめませんでしたね。 伯爵は息子の素行を憂い、貴方にエドガー氏の監視を命じました。 ご子息が夜遊びにハマり身分違いの女を身ごもらせるか、性病を伝染されたら大変と思ったのでしょうね。 貴方は一般人に化け、夜な夜なイーストエンドに足を運ぶエドガー氏を尾行しました。 何故こんな場所へ? 賑やかなパブが軒を連ねた表通りならいざ知らず、エドガー氏が目指すのは閑散とした裏通り。 やがてエドガー氏が消えたのは教会の隣の建物……死体安置所でした。貴方は大いに戸惑いました。 娼館に出入りしてるんじゃないのか? てっきりそうだと思って、伯爵に預かった手切れ金を持ってきたのに。 調子を狂わされたまま石階段を下り、突き当たりの部屋を覗き込み、驚愕に立ち竦みました。 エドガー氏は医者に賄賂を払い、一体一体死体を検め、狂気じみた形相でスケッチしていたのです。 ただスケッチするだけでは飽き足りません。 表返しまた裏返し、あちこち撫でて押して感触を確かめ、瞼を固定して濁った眼球を観察しています。 死体は物言わず微動だにせず、台に仰向けてモデルを務めていました。 吐き気がしました。 モルグには消毒液の刺激臭にまざり、腐敗臭が立ち込めています。エドガー氏はまるで意に介さず、腹から臓物を零した死体に歩み寄り、左右対称にご開帳された肋骨の奥の心臓を描いていました。 戦慄を禁じ得ない、おぞましい光景でした。 死体のスケッチを終えたのち、エドガー氏は医者に挨拶してモルグをでました。貴方は尾行を続けます。次にエドガー氏が向かったのは、煙管を咥えた廃人たちが屯する阿片窟でした。 エドガー氏はこの店の上客らしく、東洋人の主人に揉み手で奥へ通されました。 貴方は不機嫌に舌打ちし、伯爵に預かった手切れ金を払い、エドガー氏を追いかけました。
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