七話

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七話

屋敷の廊下で伯爵に追い付いたエドガー氏が、血相変えて申し立てました。 「待ってくださいお父様!」 「この上何を話し合うというんだ、青春を謳歌して気がすんだろ。お前に絵の才能はない、諦めろ」 「結婚なんてまだ考えられません、せめて卒業まで」 「息子が骨の髄まで阿片に毒され廃人になるのを待てと?」 伯爵の顔に軽蔑が浮かびます。 エドガー氏の眼窩は落ち窪み、頬は削げ落ち、艶やかだった髪の毛はぱさぱさに傷んでいました。 「なんだその体たらくは。禁断症状で絵筆も満足に握れないじゃないか」 脇にたらした手は痙攣し、指の震えが止まりません。 「どうして……」 知ってるんだ、とは続けられません。 伯爵が知っている理由は明らか、貴方が報告していたからです。 エドガー氏が振り返りました。裏切り者を見る目でした。貴方は顔を背け、たった一言絞りだします。 「すまない」 「復讐なのか」 エドガー氏が髪を掻いてあとずさり、貴方は言葉を失い立ち尽くします。 錯乱するエドガー氏に片手をさしのべ、弁解しようと口を開き、虚無感に苛まれて閉じました。 「……かもな」 ずっとずっとエドガー氏が嫌いでした。 大嫌いでした。 エドガー氏にとって貴方は親友だった。 貴方にとってエドガー氏は恩人だった。 友情と恩義は両立するでしょうか? エドガー氏は何もかもに恵まれすぎていた。 貴方は絵の才以外何も持たなかった。 故にこそ貴方は、エドガー氏が一番欲した友情を与える事を拒んだ。 エドガー氏の顔に幻滅が過ぎり、すぐ消滅します。 身を翻し立ち去るエドガー氏を、貴方は苦渋の面持ちで見送りました。 結婚式の準備は粛々と進みました。許嫁もインドから帰国したそうです。 当時七歳だった幼女は、十六歳の見目麗しい淑女に成長していました。 ところがエドガー氏は一度も花嫁に会いに行きません。 学校の授業をサボり、昼間からパブに入り浸り、カウンターで酔い潰れています。 パブにいない時は阿片窟、このどちらかにいました。貴方は伯爵に命じられ、しぶしぶ友人を迎えに行きました。 「起きろ、花嫁さんが待ってるぞ。衣装合わせをすっぽかすんじゃない」 「ほっといてくれ」 肩を揺すって起こせば寝ぼけた声でぼやき、邪険に手を払われました。さすがにむっとします。 「レディに恥をかかせるな」 「だったら君が結婚すればいい、お似合いだ」 「俺が?冗談キツい」 「何故?養子だから?」 「養子ですらない、お情けで置いてもらってるただの居候だ」 唇を曲げて皮肉っぽく自嘲すれば、エドガー氏は悲痛に顔を歪め、グラスの底のジンを呷りました。 「なんでわかってくれないんだ」 伯爵が? それとも貴方? エドガー氏の罵倒は主語がぬけていました。 「……お前は立派な伯爵になるよ」 「お為ごかしはやめろよ、心にも思ってないくせに」 「思ってるさ。俺を拾ったのは、救貧院を慈善訪問した帰りだったんだろ」 「失敗した。別の道を使えばよかった」 「感謝してるんだよ本当に。お前がいなけりゃ野垂れ死んでた」 エドガー氏の腕を肩に回し、腰を支えて立ち上がらせた拍子に、彼の手が滑りました。 いえ、わざとグラスの底を叩き付けたのかもしれません。 結果としてグラスは割れ砕け、中身のジンがカウンターに溢れ、エドガー氏の血と混ざりあいました。 「馬鹿野郎!」 咄嗟にエドガー氏の手を包み、てのひらに刺さった破片を抜いていきます。 「筆が握れなくなる」 「もういいんだ、どうでも」 「よくない」 「代わりに描けよ、その方が良いものができあがる」 「盗作から傑作は生まれない、剽窃の誹りは受けたくないね」 ほんの一瞬、貴方とエドガー氏は笑い合いました。 幸い傷は浅く、深手には達していません。 ガラスの破片をあらかた摘出したのち、エドガー氏の指先に膨らむ大粒の血を吸い、唾液で消毒します。 「続きを描かなきゃ。式までに仕上げたい」 「アトリエに放置してる未完の絵か?」 「どうしても手に入らない素材があるんだ、方々探し回ってるんだけど」 「鉱石?貝殻?植物?」 「……砂」 「海にうんざりするほどあるぞ」 「暗夜(あんや)に恩寵を降らす特別な砂なんだ」 さっぱりわかりません。 ハンカチを巻いて止血を施し、エドガー氏を背負い直しました。 「綺麗だな」 エドガー氏の視線の先には縁が欠けたグラスが倒れていました。飴色に艶めくカウンターには琥珀色の液体が広がり、赤い血を薄めています。 人さし指をジンに浸し、美味そうにしゃぶるエドガー氏。ハンカチにじわじわ滲み出す赤。 「ほら」 再びジンをすくいとり、口元へさしだます。 貴方は店に犇めく酔客の隙を突き、エドガー氏の傷口から滴るジンと血の雫を舌で受け、うっとりと味わいました。 エドガー氏は貴方が雫を嚥下するのを見届け、満足げに苦笑しました。 「ジン四分の一オンスに血が一滴。それが僕たちの新しい色だ」 僕にはわかりません。 あえてわからないふりをします。 貴方は何故エドガー氏に優しくしたのですか? 同情?憐憫?優越?あるいは償い、罪滅ぼし? 彼の堕落に比例し救われていたのは、実は貴方じゃないんでしょうか。
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