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「貴様の帰りが遅いと心配して、単身乗り込んできおった」
唖然とするアルフォンスの耳に、バルトレットの失笑が滑り込んでくる。
「事情を聞いたら、自分が身代わりになる故、兄を解放しろと抜かしおったわ! 脆弱そうに見えて、心根の頑固さは流石兄妹だな!」
王が、さも可笑しそうに玉座の肘掛けを平手で叩く。だが、違うのだ。この妹が、兄の危機を察して駆けつけたのには、迂闊に人には言えない別の要因がある。
「ファティマ」
よろよろと。ふらつきながら妹のもとへ歩み寄り、二人の間にしか聞こえない声量で問いかける。
「『視た』のか」
その質問に、頭半分小さい妹は、菫色の視線をしっかりと兄に向け、今にも散りそうな花のごとき儚い笑みを浮かべてみせる。それが、兄妹の間で何度も交わした符丁であり、全ての答えだ。
「貴様の妹はグリッドに預ける。貴様は部下を率いて先鋒を務めろ」
追い打ちをかけるがごとく、国王の命令が無慈悲に下される。自分が迷夢にとらわれている間に、誰よりも大事な妹を巻き込んでしまった。激しい後悔が訪れるが、決まってしまった事態を巻き戻してやり直す事は、神格化された聖王ヨシュアでもできない。彼さえも、三百年前の聖戦の折には、数多の仲間の屍を乗り越えた末に、魔王イーガン・マグハルトを討ち果たしたというのだから。
吟遊詩人は英雄の活躍を綺麗事のように謡う。しかし、その裏には、闇に葬りきれない悪意と陰謀と愛憎が渦巻いているのだ。聖王が隠しきれなかった暗黒を、一介の騎士に過ぎない自分が払う事など、到底できない。顔をうつぶせ、歯噛みをすると。
「アルフォンス兄様」
鈴の鳴るような誰よりも愛おしい声が、アルフォンスを現実に引き戻した。ひんやりとした小さな手が頬に触れ、菫色の瞳が優しげに細められる。
「わたしは大丈夫です。心配はありません」
『大丈夫』
頼り無げな外見と、その身に秘めた力故に、幼い頃から虐げられる事の多かった妹。そんな彼女がいつからか、兄を安心させる為に放つようになった言葉を、呪詛のように噛み締める。
「さあ、さっさと行け」
感傷に浸る時間は終わりだとばかりに、バルトレットの嘲笑を交えた声が鼓膜を叩きつける。
「貴様の忠誠を見せろ。最後の一兵まで退く事を許さん」
それは死んでこい、と同義だ。どんなに理不尽な命令を浴びても、己より大切な妹の生命がかかっているのだ。逆らう事などどうしてできようか。
「……かしこまりました」
かろうじてそれだけを絞り出す。衛兵が兄妹を引き離し、ファティマの小さな手が名残惜しそうに遠ざかってゆく。
エステルを殺すか。彼女に殺されるか。
それ以外の選択肢は、最早アルフォンスには残されていなかった。
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