秋霖

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翌朝 ─── 李子が目覚めたのは明け方だった。 朝靄が白く立ち込め、見ればベンチも李子自身も霧をまとっていた。 空は明るかったが、綿花のような雲が隙間なく覆い、李子は高い湿度に軽く()せながら身を起こした。 辺りを見回したが人はおらず、時刻のせいか天気のせいか鳥の鳴き声一つもない。 「いかなくちゃ」 李子はスーツを覆うビニールの露を払い、足を地に降ろしてビーチサンダルを履いた。 暑くも寒くもない朝、煙のように(けぶ)るミストを分けて木立の中を進んでゆく。 靄はくすんだコンクリートや小路の手摺にある汚れをかき消し、時折その粒子を光らせて鱗粉のようにキラキラと李子の目の前を過ぎてゆく。 苔むした狭い石段の下から上の方を眺めると、天界への入口を想像させるほどに美しかった。 この、 植物の呼吸と土の香りを含んだ霧雨に包まれ、ただひたすらに水無月のいる場所を目指すならば、李子は昨日からの疲れなど少しも感じることなく歩いていけそうな気がしていた。 「確かこの先の出口から西を目指せば辿り着くはず、、、」 大きな緑地を抜け、活動を始めた街を横切り、大きな館ばかりが並ぶ閑静な住宅街に向かって緩やかな坂道を登り始める。 立派な建物の壁には大使館の文字。 都会のど真ん中であるのに、意外にも緑が多く、どこもかしこも差し込み始めた陽の光を反射し輝いていた。 「あった。 これだ、le bois(ル ヴォア)」 黒く塗った鉄柵がぐるりと店を巻き、脇にある幅の狭い門が少しだけ開いている。 暫くうろうろしたが、インターホンの類は見つからなかった。 「あの、、、失礼します」 木々の中にある洋風の建物は静まり返り、テラス越しに見えるガラスの向こうには灯りが一つぼんやりと点っているだけで人の気配はない。 木瀬の話だと、水無月の住まいはこの店の裏のはずだった。 「ここに、コウさんが」 水無月がすぐそこにいる。 そう思った途端、李子はゴクリと息を飲み、小走りになっていた。 擦り切れたビーチサンダルが足から剥がれても構わず、店の脇に続く石の小路を素足で駆け抜ける。
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