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12節 光の始まり
少年は気づいたときには一人だった。
最も古い記憶は、研鑽階層の端で排水を啜っていた光景。自分の名前も、親の顔も分からない。研鑽階層を巡る下水路で眠り、誰かが屠った魔獣の腐肉を喰らう毎日。
光もない空間に居続けたために視力が弱かった。
いつも汚水の臭いが立ち込めていたために嗅覚が弱かった。
それらの欠点を補うように耳が良かったが、一人きりではそのことに気づくこともなかった。
なんとなく、自分は捨てられたのだ、ということだけを理解していた。
きっと自分は、産まれたときからこの世界で恵まれるに値しない人間だった。だから、父も母も『これ以上は望めない』息子を置いてどこかに行ってしまったのだろう。
今にして思えば、それは優しさだったのかもしれない。研鑽階層に居れば、どんな人間でも最低限は保証される。けれど、その生活に耐えられない自分たちは息子と別れるしかない。
彼らが今、幸せに生きているなら良いのだが。
ともかく、少年は誰に気づかれることもなく、研鑽階層の底の暗闇で、生存という勝利を掴んでいた。
ある、運命の日までは。
「こんなとこで何してんだ? お前」
「…………!」
上から誰かが水路を覗き込んでいた。
光が話しかけてきた、と少年は思った。
きらきら輝く綺麗な瞳。金色の瞳。
何か返事をしなきゃ、と考えているうちに、彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「うお! お前ハダカじゃねーか! 隠せよ!」
「…………っ、あ、…………う」
少年は、生まれて初めて声を出した。
彼女は、そんな彼を見て肩を竦めると、自分の上着を投げつけた。
「……とりあえず、上がってこいよ。何か食う?」
そう言って、彼女は梯子を指差した。
──────────────────────
「あたし、ルーチェ。お前は?」
「う…………わ、から、ない」
ルーチェにゴシゴシと身体中を濡れ布巾で拭かれながら、少年はぼそぼそ答えた。
ルーチェは興味無さげに紙袋を掴む。
「ふーん。まあいいや。ほら、パン食えよ」
「…………パ、ン」
初めて見る薄茶色の塊。一口齧ると、彼女は満面の笑みになった。ルーチェの心音が、温かくて何故か心地好い。
それが、味の分からぬ少年にとって『美味しい』ということになった。
光一つない場所に居続けた少年には、居住地区はあまりに明る過ぎた。それを拙く伝えると、ルーチェは紙袋を被せてくれた。
「何であんなとこに居たのか知らねーけどさ、暇なら一緒に遊ぼうぜ!」
その頃のルーチェは、研鑽階層の下層に暮らす、とある老義肢師の元で世話になっていた。
その老人は闘技で四肢を失った選手を相手に仕事をしていて、選手を目指すルーチェはやってくる客にせがんでは、戦い方を教えてもらっているのだった。
一度拾ったなら一人も二人も同じこと、と老人は気前良く少年のことを受け入れた。ルーチェとは違い少年は闘技に熱意がなかったが、老人の作る機械義肢に夢中になった。弟子を取る気はなかったんだがなあ、と言いつつ、老人は嬉しそうだった。
それからの数年間、二人はいつも一緒にいた。遊びはいつも、最下層の探索だった。
前を歩きながら、ルーチェは屈託のない笑みを浮かべる。
「呼び方ないのは不便だよな、お前モン太でどうだ? 何かそんな顔してるし」
「もん…………」
与えられる全てが嬉しかった。
恵まれる筈がなかった自分に与えられる、祝福の数々。
ルーチェは少年のヒーローだった。
この地下世界において、彼を導くたった一つの輝き。
完全で、完璧で、美しい英雄。
────の筈、だった。
──────────────────────
「ルーチェ、ルーチェ!」
「う、ぐ…………フーッ……、フーッ……」
広がる赤。
少年が抱きかかえた少女は左の手足が大きく斬り裂かれ、止めどなく流血していた。このまま放置すれば死は免れない。
目の前で甲高い奇声を上げているのは、鼠に似た巨躯の獣。本来ならば誰かと鉢合わせする前にフォルティアが駆除していただろう、楽園によって変質した魔獣。
出会い頭に繰り出された残忍な爪からモン太を庇ったルーチェは、もはや立ち上がることも出来ないほどの傷を負った。
「に、逃げよう、とにかく、もっと上に行かなきゃ……」
「………いい、置いてけ、誰か……呼んでこい」
そんなこと出来る訳がない、と震える声で言う。
またあの暗闇に戻るくらいなら、ここで一緒に終わるほうがずっと良い。
そう告白しようとして、聞き慣れぬ音に顔を上げる。羽音。それから、壁を蹴る千両下駄の響き。
「簡易目標捕捉。分析完了。A-53型セット。システムオールグリーン────兵装喚起!」
小型無人機が無数に飛んで来る。空で変形したそれらは、無機質な銃口を魔獣へ向ける。
火花が散る。血飛沫が舞う。
よろめいた魔獣の首を、一閃が断つ。
静まり返った地下通路に、下駄で着地する音が跳ね返る。
「対象の沈黙を確認」
刀を納めた救世主──フォルティアは、無言で子どもたちに歩み寄ると、ルーチェを担ぎ上げた。伏せた眼差しで、優しく微笑む。
「帰ろう」
──────────────────────
「帰らない!」
寝台の上でルーチェが叫んだ。義肢師の老人は困ったように顎髭を撫ぜる。
ルーチェの手足は傷のせいで上手く動かなくなっており、歩くことも困難になっていた。本当の家庭に戻ることを勧めたが、彼女は頑なに首を縦に振らなかった。
「少し冷静になれ。義肢があるからなんて思うな、そう安全なものでもないのだから」
部屋を出ていく老人はそう低く呟いた。
動きを補助する道具はあるが、それでも闘技に出ることは諦めなければならないだろう。かといって、少女の動かない手足を切ってそのまま義肢へ置き換えてしまうことは、到底老人には決断出来なかった。
悔しげに嗚咽を漏らすルーチェを、モン太は心配そうに見ていた。そんな彼の胸倉を、ルーチェは右手で弱々しく掴む。
「…………モン太、頼むよ……」
「ルーチェ…………」
「あいつに助けられて、屈辱なんだよ…………! 倒さなきゃいけないのに、勝たなきゃいけないのに……! その資格さえ、無くなるなんて………………っ」
紙袋を深く被り直したモン太は、囁くように答える。
「──本当に、良いの?」
「お願いだから…………一緒に、怒られてくれ」
モン太は老人の元で暮らしている内に、驚くべき才能を育んでいた。優れた耳と指先の感覚で、素晴らしい義肢の調整技術を身に着けていたのだ。
海綿が水を吸うかのように知識を得たことで、外科技術も、機械知識も秀でていた。
もしかすれば、最早老人の腕さえ超えていたかもしれない。
一度自分の部屋に向かった彼は、大きな箱を抱えて戻ってきた。それから、施術用の鞄を。
ルーチェの顔が綻んだ。
誰にも見えない闇の中、少年は笑う。
──────────ああ、僕たちは、共犯者だ。
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