第四章

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 誠についてたどり着いた場所には、小さなお堂があった。手入れがされていないのか薄汚れて、ところどころ穴が開いている。  誠はその前で一度立ち止まり、ゆっくりとその手を扉に伸ばした。ぎぃ、と音を立てて開いていく扉。後ろから覗き込んでいた史郎は目を見張った。  何もない空間。そこにいたのは、ぐったりと倒れて動かない朔だった。  骨の様に細くなった足首には縄が付いており、それが近くの柱にきつく結ばれている。何度も取ろうとしたのか、足首には擦れたような痛々しい傷がついていた。  史郎は思わずその朔に駆け寄った。だが、先ほどとは違い、その体に触れることは出来ない。 〝認識されない〟ということが、今やっとわかった。 「こ、れは……?」  史郎が説明を求めて誠を振り返れば、誠の視線は外に向けられていた。  何か音が聞こえる。かと思えば、男女が松明を持ってやってきた。それは、先ほども見た朔の両親だ。 「おい」  男は低く声を掛ける。その声に反応して、史郎のひざ元にいた朔がピクリと反応した。  もう動くことがやっとなのか、よろよろと体を起こした朔は酷く衰弱しきっていた。身体をふらふらさせながらも、朔はその男の前へと歩いていった。 「……とさ……お父さん……」  縋るように、朔は男を見上げる。喋るのももうきついだろうに、朔はそれでも父を呼ぶ。 「……ぼ……くは、いってない……、ずっと……お母さんに、いわれたとおり、さかなを……」 「私のせいだっていうの!?」  突然逆上した女が、朔を蹴飛ばした。苦しそうに身を丸める朔に構わず、女はその小さな背中を蹴り続ける。  そんな朔を、史郎は女から守るように抱きしめた。  痛みだけではない涙を流す朔を、史郎はこれ以上見ていられなかった。触れられないとわかっていても、これが夢であるとわかっていても、守りたかった。  案の定、史郎は存在しないかのように朔は蹴られ続ける。「痛い」という言葉も言えない程、朔は限界だった。 「早く死んでよ! 早く贄になってよ! なんでまだ生きてるの!」  泣き叫ぶ女に、史郎は顔を上げた。半狂乱で朔を痛め続ける女と、侮蔑の目で朔を見下ろす男。その後ろにいた誠は、ただその状況を諦めたように見ているだけだった。 「なんで何も言わないんですか?」 「何もって、何を」 「やめてって言えばいいじゃないですか。ちゃんと、話せばいいじゃないですか」  誠はただ見ているだけだった。小さな自分が実の両親に蹴られているのを、生きていることを否定されるのを。  史郎はぎゅっと腕の中にいるはずの朔を抱きしめた。  なのに、朔は変わらず苦しんでいる。史郎の腕の中で、必死に声をこらえてる。叫びたいだろう。先ほど史郎が感じた痛みを声に出したように。「痛い」って。  強く踏みつけた女に、史郎は叫んだ。 「なんで聞いてあげないんですか! 自分の子どもでしょ!」  村で見た女の人は、自分の子供が動かなくなって泣き叫んでいた。返してって、そう言っていた。抱きしめてあげていた。  それなのに。 「ちがうって言ってる我が子を、なんでそんなに傷つけられるんですか!」  史郎の視界はもう歪んでいた。それが涙のせいだなんて言われなくてもわかる。  きっと今史郎が見てるこの光景は、アヤカシが村を襲った時からずいぶん経っている。その間にも、朔はきっと何度も助けを求めたに違いない。 「これは夢。何も変わらない」 「夢だからこそ、夢でくらい! 自分を救ってあげてもいいじゃないですか!」  助けが来ないことを、誠は知っている。ずっとずっと、助けを求めてきた本人なんだから。聞いてほしかったに違いない。こんなになってまで、いつか両親が話を聞いてくれるんじゃないかって、そう信じていたのかもしれない。  誠が頑なに話を聞かない理由を、史郎はちょっとわかってしまった。  自分が聞いてもらえなかったから。聞いてもらえないことが、当たり前だと思ってしまっているのかもしれない。  史郎は不意に腕の中に重みを感じた。見てみれば、朔が史郎の腕の中で倒れている。  触れられてる。さっきみたいに。史郎は急いで、でも優しく朔の頬を拭った。たくさんたくさん流した涙の痕。  気が付けば男女はいなくなっており、辺りは静かな空間に包まれていた。風が葉を揺らす音以外がないその場所で、史郎は何度も朔の涙を拭った。すでに拭いきっている涙以外に、きっと流し続けてきたであろう涙も拭えるように。 「俺、多分何一つ分かってないですけど」  史郎は後ろにいるであろう誠に向かって口を開いた。  まだ幼い朔は史郎にされるがままだった。目を開けることも無い。そんな朔の頬を痛くないように、そっと優しく拭っていく。 「朔くんが、……誠さんがやってないってことだけは分かります」 「何を根拠に」 「だって、朔くんがそう言うんですもん」  何度も何度も訴えてきた朔の言葉。それが嘘だとは思えなかった。  逃げればよかったのに。逃げて逃げて、遠くまで行ってしまえばよかったのに。なのに、朔はここに残り続けた。確かに他に当てはなかったのかもしれない。だけど、さっきの誠の口ぶりからして逃げたくなかったのだろう。  信じてほしかった。ただ、それだけを望んでいた。 「朔くんはお母さんに言われた通り、魚を捕っていたんじゃないんですか? 森には行ってない」 「『森から出てきたのを見た』という証言は」 「それは……何か事情があったんじゃないんですか?」  朔の頬を拭いながら、史郎は後ろを振り返った。  ジッと、史郎の腕の中にいる朔を見つめる誠。 「……あんた、とんでもなくバカなんだ」 「よく言われます」  史郎は朔を腕に抱いたまま、少しだけ体を誠に向けた。  話してくれるなら聞きたい。本当のことを、ちゃんと。史郎が動いたその時、腕の中の朔が動いた。  先ほどと同じだ。  刀に手をかけた誠に気が付いた史郎は、必死に朔を抱きしめた。 「なんで、助けてくれない、だれも、なんで?」  朔を中心に強い風が吹き、史郎は腕の力が緩みそうになる。痛い。感じたことのない痛みが体全体を襲う。  だが、歯を食いしばり耐え続けた。力を込め過ぎたのか唇から血が出て、口の中に血の味が広がる。  だけどきっと、朔はこれ以上の痛みを感じていた。 「ちょっと」  珍しく焦ったような誠が史郎の肩を掴む。その手を朔がつかもうとしたのに気が付き、史郎は身を捩って誠から離れた。これを許してしまえば、また現実世界の誠は自分の首を絞めることになってしまう。 「何してるの、血出てる、痛いんじゃ」 「誠さんの方が痛かったでしょ」  今までさんざん無視してきた誠が、今史郎を心配してくれている。  その事実だけで、史郎は少しだけ誠に歩み寄れた気がした。 「今の俺なら、誠さんの『助けて』に応えられるから」  ずっと望んでいたものを、今の史郎なら少しでもあげられる。完璧には難しいかもしれないけど、誠が『助けて』っていうなら助けてあげたい。  ずっと一人で抱えてきたものを、共有したい。  ずっと聞いてほしかったであろう話を、聞きたい。 「……ッ!」  だが現実はそう簡単ではなかった。  胸部に痛みを感じて、史郎は思わず腕を緩めてしまった。その隙に、腕の中から朔が飛び出す。すぐそばにいた誠にとびかかり、大きな音を立てて床に押し倒す。  弾き飛ばされた制帽が、史郎の足元に転がってきた。 「なんで? なんで、だれも、ぼくの話を……」  壊れたラジオの様に、先ほどと同じことをこぼし始めた。朔の細い手はしっかり誠の首を絞めている。  史郎が胸を押さえながら立ち上がろうとしても、上手く力が入らなかった。  早く助けなくちゃ、早く──……。 「そ、……だね」  朔の背中に、細い腕が回った。そのまま朔を抱きしめるようにぐっと引き付けられる。  突然のことにびっくりしたのか、朔は吊り上がった大きな目をこれでもかという程見開いていた。 「……うん、聞いてほしかった」  朔の背中に腕を回したのは、ほかの誰でもない誠だった。押し倒された体勢のまま、受け入れるように朔を抱きしめている。  誠の上の朔は、何が起こったか理解ができていないようだった。そんな朔の背中をぎこちなく撫でた誠は、穴だらけの天井を見上げている。  小さな声で呟いて以降、誠は何も言わなかった。ただ、上に倒れこむ朔の背中を撫でているだけ。慣れていないようなその動きは覚束ない。それでも、誠の手は朔の背中を何度も往復していた。  驚きに目を見開いていた朔は、ゆっくりと顔を上げ誠を見た。そして徐々に、朔の表情が歪んでいく。  一粒、二粒と大きな目からこぼれてきた雫は数を増していく。ぽとぽとと落ちていく雫は誠の軍服を濡らしていった。  それを許すかのように、誠の手が朔の後頭部に回って顔を下げさせた。従うように誠の胸に顔を静めた朔は、次第に声を上げてわんわん泣き始めた。  その声につられ、史郎も鼻を啜る。  言葉はない。だけど、誰にも聞いてもらえなかった感情が溢れ出ているような気がして胸が痛くなった。 「……あったかいね」  ずっと黙っていた誠が、ただ一言そう呟いた。  朔の背中を撫でていたぎこちない手が、再び頭に戻る。ぽん、と慰めるように乗せられたその手に答えるように、泣いていた朔が頷く。 「…………大丈夫、僕はまだ生きてる」  天井を見つめていた誠が目を閉じた。  圧倒的言葉が足りない。だけど、史郎はなんとなくわかった気がする。  朔は怖かったのだ。身に覚えのない容疑を掛けられ、心無い言葉を投げつけられ、信じていた両親に裏切られ、こんな寒いところに閉じ込められて。  死ぬんじゃないか、自分は何も知ってもらえないまま朽ちていくのではないか、と。  史郎はこらえきれなくなって、俯いた。
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