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第一章
森の中を駆け抜ける一つの人影。その人影を追うように、大きな影が素早く通りさって行った。
袴のところどころを泥で汚した島村史郎は、息を切らしながらも走り続ける。
夜に森を出歩く人などほぼいない。助けを呼べることも無く、史郎はただ走ることしか出来なかった。
「はッ……はぁッ……!」
出来る限りまっすぐには走らず曲がりくねっても、追いかけてくる影は見失ってはくれない。体力の限界を感じたその時、視界の端を赤いマフラーが横切った。
「え……?」
思わず立ち止まり振り返った先。史郎を追いかけていた大きな影と対峙するような背中は、間違いなく男の人だった。
史郎とそう背丈は変わらない。暗くてよく見えないが、軍服のような服を着たその男は、赤いマフラーをたなびかせている。
そして、腰に携えた刀に手を触れた男は、無駄のない動きで抜刀した。
月明かりに反射して、その刀が光る。光をまとったまま振るわれた刀を避けるように、影は大きく旋回した。そのまま、逃げるように森の奥へと去っていく。
思わず見とれていた史郎は、刀を鞘に納めた音で我に返った。
「あの!」
声を掛ければ、男は顔だけを微かに向けた。
制帽に隠されている猫ッ毛の茶髪と、少しだけ吊り上がったような冷たい目が猫を連想させた。細身の体をまとう軍服は陸軍のもののようで、良く街中で見かける。
だが、どこにでもいる軍人と確実に違うのが、目に鮮やかな赤色のマフラーの存在だった。もう少しで地面についてしまいそうなほど長さがある。
「ありがとうございました」
「助けたわけじゃない」
目と同じで、冷たく鋭い声に一蹴される。
声は低いわけじゃない。むしろ、史郎よりも少しだけ高いような気もする。なのに、冷たい声色のせいか怖いと思わせた。
「でも、結果的に俺は助かりました。だから、ありがとうございます」
それでも史郎が頭を下げれば、男はしばらくその場にとどまっていた。だが、すぐに何も言わずに去ろうとしてしまう。
「あ、ま、待ってください!」
史郎はすぐに顔を上げ、その男の腕をつかむ。見た目よりも細いその手首は、少しでも力を入れれば折れてしまいそう。だが、史郎の手はいとも簡単に振り払われてしまった。
「あの、あなたも、見えてるんですよね?」
まるで史郎をいないものとして扱う男の背中に問いかけた。
あの影が、見えているのか。
「あれって、アヤカシ、ですよね?」
この世に存在する〝アヤカシ〟。人ならざるもので、物の怪とも言われる。本来は人に見えることのないその存在を、この男は認識している。
足を止めず進み続ける男の背中を、史郎は追い続けた。
「見えてるんですよね?」
耳を傾けることも立ち止まることもしない男の足は、早まることも無い。
本当に、史郎がここにいないみたいだ。
むっとした史郎は、男の行く道を阻むように立ちふさがった。
制帽から覗く目に見つめられ、足が竦みそうになる。だが、史郎はそれでも道を開けることはしなかった。
「お願いします! 手を貸して欲しいんです!」
頭を下げた史郎。視線の先に映っていた男のブーツは、無情にも史郎の横を通り抜けようとした。
話を聞いてくれないらしい。でも、ここで諦めるわけにはいかない。
史郎はアヤカシを見ることは出来る。だけど、身を守る術を知らなかった。
「あの!」
史郎が男に手を伸ばしたその時、木の陰から小さな影が飛び出してきた。
それは確実に史郎を狙ってきている。
咄嗟にしゃがんで避けた史郎の頭上で、風を切る音が聞こえてきた。
ぼと、と史郎の足元に半分になった影が落ちてくる。それは、すぐに灰になって風にさらわれていった。
「……あ」
史郎が顔を上げれば、刀を薙いだ男の姿が見えた。その男の手を、史郎は掴んだ。
振り払われるのを見越した史郎は、もう片方の手も使って掴む。両手でぐっと力強く握った史郎に、男は冷たい視線を向けてきた。
「話を聞いてくれるまで離しませんよ」
そう強く男に言い放った史郎だったが、すぐにまたしゃがんで避ける羽目になった。
森の奥にたたずんでいた小さな家。もう人が住まなくなって長い年月が過ぎていたのだろう、蔦が壁を覆っていた。中に駆け込んでバタンと扉を閉めた史郎は、肩で息をしながら外の気配を探った。
まだ微かにアヤカシがいる。だが、史郎たちのことを見失っているのか家に入ってこようとはしなかった。
「だ、大丈夫ですか?」
史郎が扉に背を預けながら男を見れば、男は窓を開けて外に出ようとしているところだった。
「ちょ、なにしてるんですか!」
慌てて男のマフラーを引き、窓を閉める。
ボロボロのカーテンを閉めて外を見えないようにすれば、男はめんどくさそうに史郎を見た。
肩で息をする史郎とは違い、呼吸が乱れている様子はない。
「なに」
「俺の話を聞いてくれませんか」
「それは、アヤカシが大量に寄ってくることに関係あるの」
氷の様に冷たい男の声色に、史郎は何度も頷いた。
その様子を見た男は、目を細める。動かないところを見るに、一応話を聞いてくれる気ではいるらしい。
史郎はちらりと外の様子を見て話し始めた。
「俺、島村史郎です」
「名前はいい。用件だけ話して」
自己紹介をする気もないらしい男に、史郎は再度むっとする。
だがここで何か反論してしまえば、話を聞いてくれなくなるかもしれない。
「……俺は、アヤカシを寄せ付ける体質なんです」
史郎は出来るだけ簡潔に話した。生まれた時から、なぜかアヤカシがたくさん寄ってくるのだと。史郎の家族は全員アヤカシが見えた。祖母も、母も。だが、寄せ付けてしまうのは史郎だけだった。
今いる家のように、四方が壁に覆われている空間では、アヤカシが見失ってくれると知ったのは最近だ。
ポケットの中をまさぐった史郎は、目的のものを取り出し男に見せた。
「今までは祖母がくれたお守りで何とかなってたんですけど……」
手のひらの上には、真っ二つにちぎれたボロボロのお守り。小さなころから肩身離さず持っていたのに、先日、壊れてしまったのだ。
男はじっとそのお守りを見つめた。
「……で、何」
冷たい言葉に、史郎はたじろいだ。だが、ここで負けるわけにはいかない。
「アヤカシの事件を、一緒に解決してほしいんです」
言葉と同様冷たい目に、史郎は後ずさりそうになる。
冷や汗が出てくるのを感じながら、それでも史郎は男から目を離さなかった。
「体質と、事件解決に、共通点が見つからない」
「この体質が何なのか、知っているアヤカシがいると聞いたんです。困ったら、そのアヤカシを探せばいい、と」
「どんなアヤカシかは知ってるの」
「……知りません」
男はくるりと背を向けた。赤いマフラーが目の前を舞う。
「話にならない」
それだけを言うと、男は窓から外に飛び出した。
史郎が止める間も無く、男は華麗な刀さばきで次々と斬り伏せてしまった。
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