第一章

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 だが、その牙が史郎に届くことはなかった。  眼前まで迫ったキツネの身体が止まったかと思えば、そのまま大きく横にぶれる。  その後ろに見えたのは、刀を振るった男の姿だった。  どさりと音を立てて倒れたキツネは、斬られた背中から灰となって、そして風に攫われていく。  救ってもらった。だけど、史郎はお礼を言うのも忘れて消えていくアヤカシを見つめることしか出来なかった。 「なんで、なんで斬っちゃったんですか」  男が斬らなければ、史郎は怪我どころじゃすまなかった。助けてもらったんだからお礼を言わなくちゃいけない。怒るなんてお門違いにもほどがある。  分かっているはずなのに、史郎は男に詰め寄り肩を掴んだ。 「話してたじゃないですか! このアヤカシだって、事情があって!」 「あぁ、間違ったかも」  肩を揺さぶられる男は、小さく呟いた。  肯定されるとは思わず、史郎動きを止め男を見つめる。今までよりも一番冷たい目。氷よりも、この世の何よりも冷たく感じさせた。 「あんたごと斬ればよかった」  どんな刃よりも鋭い声。唾を飲み込んだ史郎は、ゆっくりと男の持つ刀を見た。こちらに向けられていることはない。だけど、斬られる可能性だってある。  先ほど向けられた切っ先を思い出して、微かに身震いをした。  だが、男は汚れを払うように刀を振ってそのまま鞘に納める。 「依頼人」 「え……、あ、俺……?」  男に呼ばれ、史郎はハッとした。そうだ。この男に依頼をしていたのだった。  『友人を襲ったアヤカシの正体を掴んでほしい』と。 「依頼人の友人を襲ったアヤカシは、殺された復讐を誓ったキツネのアヤカシ」  淡々と述べた男に、史郎は呆気に取られていた。  さっきまでの鋭い視線は向けられることなく、逸らされている。鋭い目を向けられないのは良いが、逸らされているのも逸らされているのでどこか寂しくなる。 「清が、キツネを殺したって言うんですか?」  史郎が尋ねれば、男は史郎を指さした。史郎は指さされた自分の格好を見る。学友たちと同じ、着物の下にシャツを着て袴を穿いた格好。どこにでもいる、学生の姿だ。 「依頼人の友人が襲われた理由は恰好」 「か、恰好……?」 「あのキツネを殺した人間も、依頼人たちと同じ格好だったから」  男の言葉に、史郎は男を見た。 「恰好が同じだっただけで、清はキツネを殺してはいない……?」 「それは知らない」 「えぇ……?」  全てを知っているような口ぶりだったのに。  史郎は思わず肩を落とした。恰好が原因で襲われたと言い切ったくせに、その犯人は分からないという。 「じゃあ、やっぱりあのアヤカシに聞いたほうがよかったじゃないですか」 「ちゃんと会話が出来ると思ってたならめでたいにもほどがある」 「でも事は本人にしかわからないじゃないですか!」 「なら聞けば」  男に鋭い視線を向けられ、史郎は後ずさる。  緩められることのないその視線に、手に汗がにじむのを感じた。  日が昇りきった昼。  史郎は再び清のいる蔵の前へと来ていた。だが、鍵を開ける腕がいつもより重い。  会いたくない訳じゃない。だけど、いつもより心が陰っているのを感じていた。  そんな史郎の後ろにいた男が、史郎の手から鍵を奪い取った。 「あ、あの」  史郎は男の手を掴んで止める。視線だけを向けてきた男に、史郎は問いかけた。 「アヤカシって、急に見え始めたりするものなんですか?」  史郎の問いかけにしばらく視線を向けていた男は、答えることなく史郎の腕を振り払った。  そのまま鍵を開けたかと思えば、無遠慮に中へ入っていく。  慌てて男の後を追って中に入った史郎は、いつも通りベッドの上にいる清に駆け寄った。 「史郎!」 「具合はどうだ?」  縋るような視線を向けてくる清に腕を掴まれる。史郎はいつも通り笑いかけたが清の視線は史郎の後ろに向けられていた。 「なぁ、どうなったんだ? 物の怪だっただろ? あそこには、物の怪がいただろ?」  史郎の服をぎゅうと握り締めながら、清は男に問いかける。  史郎が肩越しに見れば、男は無慈悲な視線のまま清と対峙していた。 「あの森で何を殺したの」  何の前置きもしないまま、男は問いかけた。その瞬間、清はひゅっと息をのむ。  ガタガタと震えているのが伝わり、史郎はそっとその背中を撫でた。顔面蒼白で取り乱しているのも分かりきっているのに、男は気を遣う様子も見せなかった。 「短く話して。簡潔に、明確に」  コツ、とブーツの音が蔵の中に響く。それに大げさに反応した清は、史郎に縋りつく手に力を入れた。ぐっと引っ張られるのを感じながら、史郎は男を見る。  清がどんなに怯えようとも、取り乱そうとも、男の目は鋭いまま。 「探偵さん、今、清は……」  清が可哀そうに思えて、史郎は男に声を掛けた。  それでも鋭い視線は史郎に向けられることなく、清に注がれたままだった。 「お、おれは、別に殺しちゃいない! あいつが、あいつが……! あいつが悪いんだ、オレは、オレは悪くない! あいつが……!」  清が取り乱したまま声を上げた途端、史郎の目の前に鈍く光るものが横切る。  鼻先すれすれを通ったのは、男が持っていた刀。その切っ先が、清に向けられている。 「状況だけ」  まるでその切っ先と同じような鋭い声。目と同じく温度のない男の言葉に、清はハクハクと口を動かした。  史郎の身体がぐっと引っ張られたかと思えば、頬にピリリと鋭い痛みが走る。 「何なんだよお前は! 『怪異探偵』なんだろ! 物の怪だけを殺しとけよ!」  後ろから聞こえてくる清の声。そして目の前に向けられている男の刀。  清に盾にされているのだと、史郎はそこでやっと気が付いた。 「き、清」 「そもそも弱いやつが悪いんだろ! やられる方が悪いんだ、オレは悪くない、オレは!」  史郎の肩を強く掴む清。いまだかつてないほど取り乱している清に、史郎は声を掛けようとした。  だが、腹部を蹴り飛ばされ清から引き剥がされる。受け身を取ることも出来なかった史郎は床に叩き落された。  せき込みながら体を起こした史郎が見たのは、ベッドに乗り上げ清を押し倒している男の姿だった。  清の顔の横に刀を突き立て、完全に逃げ道を塞いでいる。 「起こったことだけを、短く、簡潔に」  言い聞かせるように、男は区切って話した。脅迫にもとれるその行動に、清はもう呼吸の仕方さえも忘れているのではという程怯え切っていた。  史郎が清のいる蔵から出たのは、日が傾き始めたころだった。  オレンジ色の空を見上げた史郎は、目を細めた。  清は、キツネは殺してない。だが、あの崖で人を突き落としたことは事実だった。  あの森で遊んでいた清たちは、背の高い男の人に注意を受けたという。ここは立ち入り禁止だと。  気が立っていた清は、その男の人と口論になり、手を出してしまった。突き飛ばした先が運悪く崖で、その男の人は落ちて行ってしまったという。  そこからしばらく森には近づけなかったが、学校で鬱憤がたまった清は一人であの森へと向かった。そして、そこでキツネのアヤカシに襲われ、崖から落とされてしまった。  史郎はポケットの中からお守りを取り出した。  結局、これの真相については聞けなかった。  あの学友たちが無意味に嘘をつくとは思えない。だけど、清が虐めをしていたとも史郎は思えなかった。  いろんなことが重なって、お守りがちぎれてしまったんだ。  吹いた風に揺れた髪が、頬に当たりピリリと痛む。  史郎がお守りを握り締めたのと同時に、後ろからコツコツとブーツを鳴らす音が聞こえてくる。振り返れば、赤いマフラーを揺らしながら歩く男がいた。 「探偵さん、ありがとうございました」  史郎は頭を下げた。  清は結局、蔵から出れなかった。アヤカシだということは説明したものの、大人たちは信じてくれなかった。清も清で、取り乱していたのが嘘のように、項垂れたままになってしまった。  それでも、男は仕事を全うしてくれた。  頭を下げた史郎の横を、赤いマフラーが通り過ぎていく。止まることのない男に顔を上げた史郎は、駆け足でその男についていった。 「あの、今更なんですけど名前をきいてもいいですか?」  止まることのない男は、本当に史郎をいないものとして扱う。  それでも史郎は負けず、男の歩幅に合わせてついていった。 「探偵さんって呼ぶのもなんだかなぁって思いまして。たくさん助けていただきましたし、知っておきたいんです」  ここまで無反応なのはいっそ感心する。史郎は歩き続ける男の横顔を今更ながらじっと見つめた。  制帽と前髪で隠れがちな目は、まっすぐ前を見つめている。揺らぐことのないその目はやはり吊り上がっていて、初対面でも感じた通りどこか猫らしさを感じる。 「……探偵さんって、猫っぽいって言われませんか?」  思わず口にした言葉に、男は小さく反応した。  お、と史郎が思ったのもつかの間、さっきの反応はなかったかのように男は元の無表情に戻った。  名前も教えてくれないし、無視してくるし、いっそのことこちらで勝手に名前を付けてしまおうか。それでもこの男はきっと今までと変わらない対応をしてくる気がする。 「探偵さんが答えてくれないので勝手に(まこと)さんって呼びますね」  深い意味はないけれど、最後に読んだ本の主人公だから許してくれるだろう。その主人公は猫又だったって言えば、また無表情以外の顔が見られたりするのだろうか。  そんなことを考えながら、史郎は手に持ったお守りを握り締めた。 「誠さん、もう一つ依頼したいことがあるんですけど」  立ち止まった男・誠は、顔だけを史郎に向ける。  問いかけてくることはない。だが、立ち止まったということは聞いてくれるという事だろう。  史郎は自分でそう解釈し、口を開いた。 「このお守りについてなんですけど」  史郎が話し出そうとした時、一台の馬車が横に止まった。  まるでスローモーションのように見えた。史郎が顔を上げれば、一人の男が降りてくる。  軍服を着た、四十代くらいの男。オールバックにまとめているためか一つ残らず見えるその表情は、穏やかな笑みをたたえている。そこにいるだけなのに、空気感が違った。  ここにあるすべてのものを統率してしまうかのような、圧倒的なオーラ。史郎は無意識のうちに息を飲み込んだ。 「これはこれは。私の知らないうちに新兵が入ったのかな」  男は誠をみて微笑んだ。そんな男の笑みに、誠は制帽を下げる。  上司の登場か、と思った史郎は誠の反応に首を傾げた。  史郎がよく見る陸軍は、上司が現れれば敬礼をして背筋を伸ばす。だが、誠は違う。  制帽を下げ、顔を合わせようとしない。  そんな誠に、男は笑みを深めるだけだった。
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