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細い鉄製のハシゴに足をかけ、広めで平らな屋根の上に立つ。八宗丘くんが腰を下ろしたので、おれもその場に座って膝を抱えることにした。
彼が皮肉っぽく首を傾げる。
「オレと組まされるなんて災難だったな、書記殿」
「……うん?」
「鬼ごっこが終わるまで……二時間だったか? 適当にそこで寝てろよ。わざわざ走る気ねえし、鬼が来たらぶん殴って追い返すから問題ねえだろ」
問題、とてもある。
好戦的な発言にぽかんとしながら、つまり彼は鬼ごっこに参加する気が最初からなかったのかと理解した。だからグラウンドに来なかったし着替えてもいなかったのだ。
朝に入れてきた気合いが萎んでいくのを感じつつ一応「殴るのは……よくない」と注意しておく。
八宗丘くんは、よく言われるよと呆れたように返した。『分かった』ではないあたり、殴る予定は変わらないらしい。
「……どうして、おれが……ペアだって、分かったの?」
「メールは来たからな。あとクソうるせえ声もここまで聞こえてた。腕輪は持ってねえが、どうせ放送部の奴らも、生徒会も、オレが参加するなんてハナから考えてねえよ」
八宗丘くんがフンと鼻を鳴らして目を閉じる。そのまま、二人のあいだに沈黙が落ちた。気まずい。背中を丸めながら地面を見つめる。
放送部のひとたちは、どうしておれと八宗丘くんをペアにしようと思ったのだろう。グラウンドで話した生徒も彼のことに詳しいようだったし、結構有名なひとのようだけれど、おれは彼のことを知らない。
いや、名字だけは聞き覚えがあった。もしかして会ったことがあるのに、おれが忘れてしまったのだろうか。
「あの……」
「……なに」
「おれと、八宗丘くんって……会ったこと、ある?」
「あ? なんでそんなこと聞くんだよ」
「……名字、聞き覚えがある……けど、思い出せなくて」
「学園の噂じゃねえの?」
「……たぶん、違う」
八宗丘くんは眉をひそめてしばらく考えるような素振りをした。
「あー……お前って名字に数字入ってたよな。だったらあの、なんだったか、犬の骨みてえな名前のやつ」
「……狗骨会?」
「それだ。あれの名簿で見たとか。オレの家も入ってるんだよ」
ああ、と納得した。
狗骨会とは、名字に数字の入っている名家や資産家の団体だ。榮や九万神先輩、百鬼先輩の家も参加している。近況を話し合ったり、パーティーをして交流するだけの平和な集まりらしいけれど、おれはあまり関わっていないので詳しくない。
確かに名簿は見せてもらった記憶はあった。兄さんがパーティーへ駆り出されたことがあって、その時に見たのだ。
「……それ、かも」
「オレは行ったことねえけどな。パーティーなんざ何が楽しいんだか。つかなんで犬の骨なんだよ、もっと他にあっただろ」
「……確か、マザーグース……からだって」
「マザーグース?」
「イギリスの、童謡とかの総称で……狗骨会は……犬に骨をあげる、おじいさんの……数え歌から取ってるって、父が」
「へえ……親と仲がいいんだな」
八宗丘くんの声が、一段低くなったような気がした。視線を上げる。彼は横を向いて空を見ていたけれど、どこか表情が硬い。「……たぶん」と小さく答えると、さらに眉間に皺が寄せられた。
先ほどまでは淡々と話していたのに、どこで気を悪くさせてしまったのだろう。
「多分でも、そう思えるなら仲は良いだろ。オレなんかこの学園に突っ込まれてから二回しか会話してねえし、どっちも嫌味しか言われてねえよ」
前髪をかき上げながら投げやりに言った八宗丘くんに、言葉を返すことが出来なかった。仲の悪い家族なんて物語でしか見たことがなくて、どうすればいいのか分からなかったのだ。
八宗丘くんがこちらを見て薄く笑う。
「驚いた顔だな。そんなに珍しいか?」
「……っ」
ゆらりと立ち上がった彼が、緩慢な動きで近付いてくる。
「まあ、そうだよな。東校舎の奴らは愛されてぬくぬく育ったお坊ちゃんばっかだし、お前も例外じゃない……実はよ、風紀委員長に釘を刺されてたんだ。お前に手荒な真似すんなって」
「……百鬼、先輩?」
「おー。さすがにあいつとやり合うのは面倒だが、要するに手荒じゃなきゃいいんだろ?」
見下ろされ、初めて八宗丘くんの瞳の色が青いことに気付いた。
向けられる感情が読み取れず戸惑っているうちに、彼がしゃがんでおれの顔をじっと見つめる。
「お前みたいにさ、大事にされて、愛されてる純粋な奴を見てると……すっげえムカつくんだよな」
胸ぐらを掴まれたと思った瞬間、いきなり八宗丘くんの顔が近付いて唇に暖かいものが触れた。
「ん……っ!?」
ぬるりと湿ったものが唇を割って入り、目を見開く。
――青い。
なにが起きているのか把握するより先に、ただ視界に飛び込んだ、夏の空みたいに真っ青な虹彩を呆然と見つめた。
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