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あの日を忘れたことなどない。
裏切られ、騙され、世界を憎み、自分が自分ではなくなった日。
身も心もボロボロになって、手当たり次第に当たり散らして。
それでもやっと復職して、気が付けば40目前になっていた。
あれから俺は脇目もふらずに必死で生きてきた。発達障害と診断され、潰瘍性大腸炎と診断され、リハビリや就労支援の力を借りて何とか就職して、障害年金や遺族年金のおかげでやっと暮らせている有様だ。
今の流行りも分からないし、10年以上遊びに行ってない。それでも、記者と言う仕事は嫌いではないし、天職だと思っているから、それで問題ないのだ。
「勝利の秘訣は何でしょうか!?」
「やはり、皆さんからの熱い応援です!みんな、いつもありがとう!」
+++
「ふぅ・・・」
熱気冷めやらぬ球場を後にし、俺達は呼吸を整えた。
「そっちはどうだ?」
「ええ、問題ありません」
俺の相棒でありカメラマンの藤井は、撮った写真を確認しながら俺に報告した。彼女は定型で、障害者採用の俺を疎んでいる。だから本当に最低限の事務的会話しかしないし、仕事が終われば飛び出すように俺の前からいなくなる。まぁ、そんな事は彼女に限ったことではないし、仕事はこなせるのだから文句はない。
会社に戻ると、部長が待ち構えていた。
「おう、おつかれさん。いいネタ掴めたか?」
「今年は西星が当たりですね。いい奴揃ってますよ」
「ふむ、源田監督が復帰してからチーム力が上がったって噂だしな。よし、早速記事にするぞ。お前ら今日は残業だ」
「では、私はこれで」
藤井は荷物をまとめてさっさと退社してしまう。カメラマンは写真を撮ればそれで終わりだ。だが記者はそうはいかない。翌日の朝刊に間に合わなければ、なんの価値もないからだ。
「では、俺も帰らせて頂きます」
「えっ!?ちょ、おい!残業だって言っただろ!」
「俺は残業はしませんので」
ニッコリと笑って会社を後にする。
慌てて電車に乗って、時間を確認すれば16時半だった。
(スーパーに寄って、ニンジンと大根を買おう。今日は寒いからおでんにするか)
最寄駅に着いた頃には17時を過ぎていた。
まだ明るい空の下をゆっくりと歩いていく。この辺りは住宅街なので人通りは少ない。街灯には小さな羽虫が集まっている。
目的のスーパーが見えてくると、その前で何やらもめ事が起きていた。
「だからさー、あんまりしつこいと警察呼ぶよ?俺も暇じゃないんだよね」
「そう言わずに。あなたが神部秘書官ですよね?話だけでも聞かせて下さい」
スーツ姿の男女が何やら揉めているようだ。女性の方が声をかけているのは、背の高い細身の男で、どこかで見たことがあるような顔立ちをしている。
「横領事件の際、あなたは現場にいたんですよね?何か不審なものを見ませんでしたか?」
「見てないって言ってるじゃん。もう行ってもいいかな。忙しいんだけど」
男は迷惑そうな顔をしていた。
「待ってください、あなたは…」
「ああもう、うるせえな!」
「きゃっ!?」
男が女の手を乱暴に振り払ったせいで女は尻餅をつく。それを見ていた周囲の人間は見て見ぬふりをして足早に立ち去っていった。
「あ~、痛ぇ……これ折れてるかも。慰謝料請求してやろうかな」
「っ、ふざけないでください!慰謝料なんて、そんな・・・」
「じゃあさ、あんたが代わりに払ってくれんの?」
「それは・・・」
「ほら、できないでしょ?なら帰ってくんない?邪魔だよ」
男は面倒くさそうに頭をかいてからその場を離れていった。
「うぅ・・・ぐす・・・」
女性は座り込んだまま泣き出してしまった。
「あのぉ、大丈夫ですか?」
放ってもおけずに声をかけると、彼女は涙に濡れた瞳を上げた。
その見覚えのある顔に、俺の心が一気に沸き立つ。
「――小俣・・・さん?」
「・・・小森君」
+++
その翌日、俺はいつものように慌ただしい社員食堂でランチを注文し、トレイを持って空席を探しているところだった。すると、隅っこの席にぽつんと座っている彼女の姿を見つける。
彼女は昔と変わらず凛としていて、近寄り難い雰囲気をまとっていた。
年齢とともに色香を増していく彼女から目を離せずにいると、不意に彼女と目が合う。
「・・・また、会ったね」
「・・・うん」
俺は言葉少なげに返事をした。
「・・・ここ、いい?」
「・・・どうぞ」
俺は隣の椅子を引いて腰掛けた。
「・・・ねぇ、どうしてこんな所にいるの?」
「それはこっちの台詞だよ。いつからこの会社に?確か外資系の銀行にいたんじゃなかったっけ?」
「・・・いろいろあって辞めたの」
「・・・そっか」
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。俺は気まずさを誤魔化そうと、おかずを口に運んだ。
彼女は覚えているだろうか?俺が告白したことと―ーそのあと口汚く罵ったことを。
あの告白に、他意はなかった。先に就職し、順調に道を歩んでいた彼女に対して抱いていた劣等感。それが嫉妬心となって爆発したのだ。
子供じみた感情だと今ならわかる。でも、当時の俺は余裕がなかった。
だから、あんな酷い言葉を吐いた。
「俺が発達障害なら、お前だって発達障害だ!」
―ー彼女と話したのは、それが最後だった。
「・・・・優香とは、まだ連絡取ってるのか?」
「取ってない。私、誰とも取ってないの」
「そうなのか?てっきり仲良かったと思ってたよ」
俺がそう言うと、彼女は自嘲気味に笑う。
なんだか、疲れているようだった。
俺は思わず「大丈夫?」と問いかける。何が、とも分からぬその問いに、彼女はきょとんとしてこちらを見た後、「平気だよ」と微笑んだ。
(やっぱり美人になったなぁ)
つい、まじまじと見つめてしまう。視線に気づいているだろうに、彼女は嫌がりもせず、ただ笑みを浮かべていた。
「小森君は?」
「え?」
「元気にしてた?」
「・・・まあ、なんとかね」
「そう」
彼女はそれだけ聞くと、食事を再開した。
結局その日に会話したのは、それだけだった。
[newpage]
もうすぐテニスのオープントーナメントの季節である。しかも、今年は日本で開催されるため、世界中から腕自慢が集まってくるそうだ。
会場近くのホテルでは連日のようにパーティーが開かれ、プロ選手やスポンサー企業関係者などが集っていた。
今日はとある企業のパーティに参加させられたのだが、酔いが回ってトイレに逃げ込んでいた。
「は~、なんでこういう場って酒飲みばっかり集まるんだろ?もっと他に楽しいことあるでしょ~」
酒を戻していると、愚痴をこぼしながら誰かが入ってくる気配を感じた。
個室の中なので顔まではわからないものの、明らかに女性の声だったので俺は少し動揺する。
(やべ、ここ女子トイレだった?)
しかし、入ってきた人物は一向に出て行こうとしないので、不思議に思って声をかけてみることに。
「えっと、すみません」
「きゃっ!?え、え?ここ女子トイレですけど!?」
「あ、ごめんなさい。間違えました」
そう言って扉を開けると、そこに立っていたのはあのテニスプレイヤーの山崎亜実だった。
三年連続世界ランキング一位の実力者で、日本人初の四大大会完全制覇を成し遂げた人物。
何度かインタビューしたことはあるが、俺の事なんかいちいち覚えてはいないだろう。不審人物は退散するに限る。そう思ってそそくさとその場を離れようとすると、彼女が呼び止めてきた。
「あ、あの!ま、待って、小森さんっ!」
彼女が俺の腕を掴むと、体幹がゴミのうえ酔って足元のおぼつかない俺は、そのまま倒れ込んでしまった。
「いてて・・・」
「す、すみません!大丈夫ですか?」
「はい、何とか。ありがとうございます。あの、ちょっとどいてもらえますか?」
彼女は俺を心配そうな目で見下ろしている。
「顔、真っ青ですよ。どこか休めそうな場所に行きましょう」
「いやいやいや、天下の山崎さんに、そんな事をさせる訳には・・・」
そう言ったものの、足に力が入らない。
畜生、こんな時間まで長居するんじゃなかった。ノー残業が俺のモットーなのに。
俺が動けないと分かると、彼女は無言のまま立ち上がって手を掴んできた。
さすがスポーツ選手である。女性とは言えその筋力は計り知れない。俺はあっという間に引っ張られていった。
連れていかれた先は、ホテルのバーラウンジ。
「水、飲めますか?」
「ああ、うん」
差し出されたコップを受け取ると、一気にあおった。冷たい水が胃に染み渡る感覚が心地よい。
ふうと息をつくと、隣に座る彼女に「ありがとう」とお礼を言う。
「いえ」
彼女は短く返事をする。
さらさらと揺れる黒髪が、バーのライトに反射して美しく光っている。
健康的な褐色の肌は、うっとりするほど艶があり滑らかだ。
胸元の開いたドレスからは豊満な谷間が見えていて、普段の溌剌としたイメージとはまるで違う色気を放っていた。
(この人、こんな美人だったかなぁ)
俺は酔った頭でぼんやりと思う。
「どうかしましたか?」
「え?ああ、なんでもないよ」
普段ならもう布団に入っている時間だ。俺は眠気と戦いながら、必死に意識を保つ努力をしていた。
手に取ったグラスを一気に飲み干す。アルコール度数の高い酒が喉を通り抜け、脳髄を痺れさせた。
(なんだこれ、くらくらする)
視界が歪み、自分の身体が自分のもので無いような錯覚を覚える。
ふと気づくと、俺は彼女にお持ち帰りされてしまっていた。
+++
ふわりと香る花のような香り。柔らかくて温かい何かが頬に触れている気がした。
「ん・・・」
(気持ちいい)
微睡みの中で、その温もりにしがみつく。
すると、彼女はくすりと笑う声と共に頭を撫でられた。
「まだ寝ていても大丈夫ですよ」
優しい声音に誘われるように、再び眠りに落ちていく。
次に目が覚めた時、俺は柔らかいベッドの上で横になっていた。
そして、何故か全裸になっている自分に気づいて呆然とする。
「・・・・!? !?!?!?!?」
慌てて起き上がると、頭がズキっと痛む。どうやら二日酔いらしい。ここはどこだと辺りを見回せば、そこは見慣れた俺の部屋ではなかった。
大きな窓からは明るい光が差し込み、部屋の中を照らし出している。
天蓋付きの豪華なベッドと調度品。壁一面がガラス張りになっていて、東京の街を一望できる絶景が広がっていた。
(えええっと・・・? 昨日の事思い出せないぞ?)
記憶を呼び起こそうと試みるも、断片的なものしか出てこない。
(確か、テニス選手のパーティーに行かされて・・・そうだ!山崎さんに介抱されたんだ! それで、ホテルに連れてこられて・・・?ここ何処だよ!)
混乱して目を白黒させていると、部屋の扉が開いて山崎さんが入ってきた。
「あ、小森さんおはようございます。よく眠れましたか?」
「あ、はい。あの、俺、すみません、ご迷惑掛けちゃったみたいで」
慌てて前を隠しながら謝ると、彼女は首を振って「気にしないでください」と言った。
「それより、シャワー浴びてきてください。今、バスタオルと着替えを用意しますから」
「あ、ありがとうございます」
俺は促されるがまま、風呂場へと向かう。
ユニットバスは広々としていて、何だか落ち着かない気分になる。
「えっと、服はここに置いときますね」
「ああ、うん」
「ゆっくりしてください」
そう言うと、山崎は部屋から出て行った。俺は恐る恐る洗面台に近づいて鏡を見る。
そこには、やつれた顔の男が映っていた。
「げっ・・・」
思わず声が出てしまう。
仕事柄、不摂生になりがちな俺だが、ここまで酷い顔をしているのは初めて見た。
髪の毛はボサボサだし、無精髭も生えている。
目の下の隈は深く刻まれており、眉間には深いシワが寄っていて、いつもより老けて見える。
「うわぁ・・・」
(一夜の過ちとかそーゆーのではないな、うん)
俺は情けない声で呟くと、急いで蛇口を捻った。熱い湯が全身に降り注ぎ、汗とともに疲れが流れ出していくようだ。
しばらくそうやって浴槽に浸かっていると、少しだけ思考がクリアになった気がした。
「よし!」
俺は勢い良く立ち上がると、気合を入れて浴室から出た。
+++
用意された服を着て脱衣所を出ると、ソファに座っていた彼女がパッとこちらを見た。
「ああ、ちょうど良かった。これ飲んで下さい」
差し出されたのはスポーツドリンクだ。ありがたく受け取り一気に飲む。
渇き切った喉に水分が落ちていき、生き返った心地だ。
「ありがとうございます」
「いえ、それじゃあ行きましょうか」
「行く?」
「はい」
彼女は微笑むと、俺の手を取った。
その手つきに胸がどきりとする。
ここまで介抱していただいた手前、何でも言う事を聞くつもりではあるが、四十路のおっさんと手を繋いで歩くというのは如何なものだろうか。
俺は気恥ずかしくて、さっきまでとは違う意味でドキドキしてしまう。
「どうかしました?」
「え?ああ、いや、手繋ぐ必要あります?そもそも、こんな所誰かに見られたら・・・」
俺が用心深く辺りを見回しながらそう告げると、彼女はクスリと笑った。
「心配ありませんよ。ここは私の家ですし、ここには私達以外誰もいないんです」
「へぇ、そうなんで―――」
その瞬間、ぐいっと強く引っ張られ、彼女の胸に倒れ込む。
甘い香りに包まれ、柔らかい感触に押しつぶされそうになった。
「ちょっ・・・!?」
「小森さん、好きです」
「は・・・ええ!?」
「初めて会った時からずっと好きだったんですよ?」
俺の顔を覗き込んでくる山崎さんの目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
「え・・・あの、じゃあえっと、昨夜は、もしかして、その・・・」
「ええ、体の相性は・・・最高でした・・・♡」
彼女は自分の下腹に手を添えると、悩ましげに吐息を漏らした。
そのあまりに官能的な姿に頭がくらりとするが、どうにか踏み止まる。
彼女にがっちりとホールドされたまま、俺は必死に頭を働かせた。
「そもそも君は俺の事を何も知らないし・・・」
「大丈夫、どんなあなたでも受け入れます♡」
「それに、もうすぐオープン戦が・・・」
「試合には影響のないようにします。それとも・・・私の事嫌いですか?」
耳元で囁かれながらみぞおちを指でなぞられ、思わず変な声が出る。
嫌いな訳がない。世界的テニスプレイヤーで、そのうえこんなに美しい女性に好かれて嫌がる男がいるはずもない。
「す、好き・・・だけど」
「じゃあ、結婚しましょうよ」
「えっ!?そ、それはまだ早いって言うか、昨夜の事はおれが覚えてないですし」
「じゃあ、やり直します?私はかまいませんよ」
耳を甘噛みされながら誘惑される。時計を見ればもう午前八時を回っていた。
「お、俺、もう行かないと!昨夜のお礼はまた改めて連絡いたしますので!」
俺は山崎の腕を振り払うと、逃げるようにして玄関を出た。
[newpage]
オフィスに辿り着くと、すでに何人かの新聞部員が出勤していた。
「はぁ、散々な目に遭った。まさか、あんな若い子に・・・」
「若い子が何ですか?」
独り言のつもりだったのだが、隣のデスクから声が返ってきた。
そちらを見ると、そこにはスーツ姿の藤井がいた。
俺の服装を一瞥すると、「ふーん」と言って鞄を置く。
「昨夜はどこかに泊まり込んだんですか?」
「そ、そうそう。ちょっと飲み過ぎちゃってね」
俺は愛想笑いを浮かべると、パソコンを立ち上げた。
「小森さんでもそんな事、あるんですね」
「藤井さんはなさそうだね」
「セクハラはやめて下さい」
「えっ、あっ、ごめん・・・」
どうにも調子が狂う。
彼女は昔から俺に対して当たりが強いのだ。
「おい小森、今日は動物記事の方に回れるか?」
「動物記事?」
「ああ、なんでも動物園で飼育員が襲われたらしくてな。メンバーが全員そっちに出払ってて、川下水族館のアポに向かえるヤツがいないんだよ。お前魚好きだろ?」
「好きだからってそんな、いきなり」
「内容は好きに考えていいから」
部長に肩を叩かれ、俺と藤井さんは渋々水族館に向かった。
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