人魚たちの明けない夜

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 危険物取扱責任者の国家試験にいつまでたっても合格できない俺は、現場のラインの最後にはりついたまま入社四年目を迎えてしまった。  四年目と言ってもこの家内制手工業の、どこかの会社の下請けの下請けの従業員八人しかいない工場の中ではまだ俺はいちばん若いし、残りの社員はじいさん連中とパートのばあさんしかいない中では、少々だが若さも意味をなしている。たとえば国家試験の受験費用は会社持ちで、結果にいつも社長は渋い顔だが、俺は若くて将来性がある身だから次回を期待され許されているとかだ。  会社はユニットバスのバスタブ部分を作っている。事業内容は、フロの型にフロの骨をはめて本体の素を流し入れて固めて、型から出してピンホールがないか見て、きれいに磨いて間に不織布を挟んで十個ずつ束ねて出荷する、ということ。これだけ。たったの。その中で俺の仕事は型から出されたフロを磨くこと。冷めるのを待ってから無心で磨く。体力だけが必要とされるゴリラ仕事だ。そして俺の仕事はこれだけ。たった。やってらんねえよ、俺は栄養失調のカモシカのようにスマートなのに。  仕方がないから仕事がふけた後、いつも俺は溶剤を少し失敬していく。誰もいないひとりのアパートでこれを吸う、それが今のところ俺の唯一の楽しみだ。有機溶剤の芳香は飲んじまいたいほど好きなんだ。 「相変わらず、しまんねえツラしてんなあ、お前は」  昼休み。小春日和の陽ざしの中で、工場の横に積み上げられた不織布や屑ウレタンの山をクッションに煙草を楽しんでいると、聞き覚えのある声が頭の上からした。 「シン」  俺は上体を起こした。へばりついた硬質ウレタンでごわごわになった作業服が俺の動きをロボットのようにする。見あげると、グレーのつなぎを着た俺の唯一のダチ、シンが立っていた。 「いい天気だな」 「ああ」  俺は答えた。 「仕事はどうだい?」  シンが聞く。 「うん……、まあまあさ」  曖昧に返事をすると、奴は俺の横に座って自分の煙草を取り出した。  空の上のほうをとんびが声高く鳴きながら飛んでいく。俺の働くこの会社は全部で十二区画の工業団地の中のひとつだ。そしてシンは同じ工業団地の別の会社に勤めている。今の時間はどこも昼休みなので、遠くからモーターの唸りがのんびりと聞こえてくる程度だ。  しばらくの間、俺たちはお互い黙って自分の煙草をのんだ。  シンはいつものように温まったアスファルトの上で安全靴のかかとをコツコツと鳴らし、煙に目を細めながら靴裏に入りこんだ小石を落とし始めた。
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