第一章 執念が伝わってくる遺体

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「ようやく顔を出せました」  その声に獅乃は苦笑して答えた。  バーテンダーの背後には、さまざまな種類の酒の瓶などがずらりと並んでいる。 「いつもので……お願いします」  それを眺めながら、獅乃は注文をすませた。 「かしこまりました。最後にいらっしゃったのは、六年くらい前でしたかね」 「三年くらいかと思っていました」  獅乃は六年と聞いて内心で驚きながら、苦笑した。  顔を憶えられていたのに気づき、少しだけ安心した。交番勤務をしていたときにここに通いつめていたのだ。 「時間が過ぎるのは、早いですよ。私は歳をとりましたが、いい変化があったようですね?」 「そうですか?」 「ええ。以前に比べて、ほんの少し、硬い感じが和らいだような」  ギムレットというカクテルが入ったグラスが置かれた。 「六年前は……仕事に慣れるのに必死でしたね。プライベートと仕事のギャップに、追いつけない時期でもありました。……世間話をする余裕すら、なかったんでしょう」  獅乃は目を細めて、ギムレットを一口呑んだ。 「私は、お客様のような方を、待っていたんだろうと思います」 「と、言いますと?」  獅乃は目を瞠り、グラスをかたむけた。 「私が理想とするのは、お客様一人一人に寄り添えるバーです。さまざまなことで悩んでいる方がここへきて、お酒を呑んだり、世間話をしたりして、少し悩みから距離を取る。そうして落ち着いて、悩みに向き合うための、きっかけ作りをしたい。そんな想いでバーをやることにしたんです」 「そうなのですか。……確かにここへくれば、嫌なことを考えずにいられましたね」  なるほどというように納得した獅乃は、ふっと笑った。 「続けているといいことがある。そう気づかせていただきました」 「続けることは、シンプルで誰にでもできそうなイメージがありますが、実はそれが難しい」  獅乃は言いながらグラスを片手に、眉間にしわを寄せた。 「そうなんですよね。おっしゃる通りです」  獅乃はうなずいて、苦笑した。世間話と酒を楽しんだ。
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