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それから彼はいつもの眼鏡を掛けて、しばらく仕事机に向かい、私は昨日の続きの本を読んだ。
読書用のソファにもたれて、時々スマホを見たり、立ち上がって本棚を探検したりした。
「妃奈乃、コーヒー入れて」
キッチンで、豆のある場所と機械の使い方を教えてもらい、洗いかごの中に入っていたマグを準備する。
豆を轢くところから全自動のタイプなので、セットして待っていれば良かった。
コーヒーの良い香りがキッチンを包む。
できあがると、ポットからコーヒーを注いで、仕事机に座っている先生のところへ持って行く。
「お、ありがとう」
「ちょっと休憩するか」と言って、眼鏡を外す。
先生は自分のマグを受け取ると、読書用ソファへと私の手を引く。
サイドテーブルにマグを載せ、ソファの片側に身を預けると、隣に座るように促される。
大きいけど、多分一人用のソファにふたりでくっついて座り、コーヒーを飲む。
彼は私の足を引き寄せ、裸足の足首の辺りを触っている。
「くすぐったい」
そう言って引っ込めようとすると、「ダメ」と押さえられた。
今日のリビングには、ギターのインストゥルメンタルがかっている。
リビングから可動式の日よけが少し伸びていて、窓から入ってくる風が心地いい。
これだけ高台にあると、空気も綺麗なんだな。
彼は、コーヒーを飲み終わるとマグを置き、私の両手を握った。
「妃奈乃は、こんな曖昧な関係は嫌?」
「曖昧な関係って?」
「先の約束があるわけでもなく、付き合っていると公表するでもなく、ただ会いたいときに会う、みたいな。
俺は別に世間にバレても何の問題もないけど、妃奈は仕事がやりにくいだろう?」
ちょっと考えてしまう。
確かに、彼は一般人とは言えないし、最初に引っかかった作家と編集という立場も無視できない。
でも…。
ソファに身体を預けながら答えを待っている彼の、おでこにチュッとして
「嫌じゃない。確かに仕事はやりにくくなりそうだから伏せてはおきたいけど。
こうして先生の…、じゃない悠哉さんと一緒の空間にいるのはとても心地いいから」
不安そうな目をしていた彼は、私の言葉ににっこりすると肩を抱き寄せた。
「じゃあ、そうしよう。こうやってくっついていよう。次の休みはいつ?」
「今度の日曜。締め切りが近いから連休は取れなくて」
「そっか…。次の日が他社の連載の締め切り日なんだ、ちょっと無理かもしれない」
「無理しなくていい。そんなことは望んでないし、何より作家としての先生が一番大事だから」
「それは編集者として言ってるの?」
ちょっとからかうような声音に、不満げな要素が混じった顔で私に聞く。
「それもあるけど、私は純粋に、悠哉さんの書くものが好きだから…」
彼は真顔になって言葉に詰まった。
「作家としてもだけど、仕事への向き合いかたも好きだし、関係者への振る舞いも高圧的なところがなくて好き。作家の先生って、結構横柄な人もいるから…」
「…ありがとう」
彼は両手を伸ばして私を包み込み、胸へと抱き寄せた。
「そう言ってもらえると、何よりも嬉しいよ。俄然、やる気になった。もっと良いものを書いて、妃奈が離れていかないようにしないとな」
抱き込まれた胸の中で、くすくす笑ってしまった。
「期待してますよ、先生」
顔を上げてそういうと、よしよし、というように頭を撫でられた。
その後は、読んでいた本の話になり、かかっていたCDの話になり、本当に他愛のない話だけど、これまで知らなかった彼のいろんな素顔を知った。
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