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この至近距離で何を言うのか、と思い、先生を見ている私に
「今、書いているヤツには、この先、男女の濡れ場がある」
はぁ、と多分、戸惑った声が出てしまったと思う。
「離婚して早10年、そろそろそういった場面で使うネタが切れてきた。
と言って、誰彼構わず取材する訳にもいかないし」
そう言いながら、眼鏡を外して目線を合わせてくる。
「俺が嫌いじゃなかったら、ネタ集めに協力してほしい」
言葉が出てこなくて、まじまじと先生の顔を見る。
眼鏡という邪魔なものがなくなったせいで、正面からみつめあう形になってしまった。
黒目がちの目は、思っていたより大きい。
その目にかかる二重のまぶたが、語りかけるようにゆっくり瞬く。まるで催眠術のように。
…きっと、故意にやっているんだ。私のことをその気にさせるつもり?
「…今の話の流れから言うと、それはその…、濡れ場のネタ、ということですか?」
濡れ場という言葉はかなり古いけど、もしかしたらそういう言葉でごまかしているのかもしれない。
あえて古い言葉や言い回しを使って、自分の感情を表現するところは、この先生の特徴でもあった。
時代小説や、古豪の本をたくさん読んできたから癖なんだとか。
先生は眼鏡とスマホを棚に置き、前髪を手で払いながらも、目線を外してくれない。
「まあ、濡れ場というか、恋人同士のあれこれ、というところかな。
…今夜の話では、キミは今、気楽な独り身でこれから先も結婚する気はない、とか?
俺もそんなつもりはないから、ちょうどいい」
打ち合わせたいことがある、と言われた割に、それって今夜の話の何の件だったんだろう、と何となく感じてはいたけど、それが私の身上調査だったとは…。
見つめあったまま、先生はじりじりと私に近寄り、肩からバッグを外すと、それを床に置いた。
そんな先生に圧迫されて思わず後ずさると、壁に背が着いた。
ゆっくりと、私の髪に先生の手が伸びる。
何をするのかと思ったら、髪をまとめて夜会巻き風に止めていたコームが抜かれて、髪が肩に落ちた。
「さっきから、これを外したらどうなるんだろう、と思っていた」
手にしたコームを、私の上着のポケットに滑り込ませる。
肩に落ちた髪を愛おしそうにひと房手にすると、毛先まで指を滑らせていく。
「…先生の眼鏡は、カムフラージュですか?」
ささやかな抵抗。
その気になればこういう男性は、目だけで誘うことができるんだ。
自分に自信がある人しかできないはず。
「いや、あれはブルーライトカット。前髪が邪魔にならないようにもあるな」
そう言いながらくすりと笑う。
その顔に本当の彼を垣間見た思いがして、気持ちが溶けそうになる。
いつも、不用意に人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている先生が、今は大人の男のオーラ?を纏って、全身で私を絡め取ろうとしている。
髪から離れた手が、頭の後ろに回り、ゆっくりと顔が近づいてくる。
そのまま、唇が一瞬触れた。
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