その夜

4/6
6279人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
この至近距離で何を言うのか、と思い、先生を見ている私に 「今、書いているヤツには、この先、男女の濡れ場がある」 はぁ、と多分、戸惑った声が出てしまったと思う。 「離婚して早10年、そろそろそういった場面で使うネタが切れてきた。 と言って、誰彼(だれかれ)構わず取材する訳にもいかないし」 そう言いながら、眼鏡を外して目線を合わせてくる。 「俺が嫌いじゃなかったら、ネタ集めに協力してほしい」 言葉が出てこなくて、まじまじと先生の顔を見る。 眼鏡という邪魔なものがなくなったせいで、正面からみつめあう形になってしまった。 黒目がちの目は、思っていたより大きい。 その目にかかる二重のまぶたが、語りかけるようにゆっくり(またた)く。まるで催眠術のように。 …きっと、故意にやっているんだ。私のことをその気にさせるつもり? 「…今の話の流れから言うと、それはその…、濡れ場のネタ、ということですか?」 濡れ場という言葉はかなり古いけど、もしかしたらそういう言葉でごまかしているのかもしれない。 あえて古い言葉や言い回しを使って、自分の感情を表現するところは、この先生の特徴でもあった。 時代小説や、古豪の本をたくさん読んできたから癖なんだとか。 先生は眼鏡とスマホを棚に置き、前髪を手で払いながらも、目線を外してくれない。 「まあ、濡れ場というか、恋人同士のあれこれ、というところかな。 …今夜の話では、キミは今、気楽な独り身でこれから先も結婚する気はない、とか?  俺もそんなつもりはないから、ちょうどいい」 打ち合わせたいことがある、と言われた割に、それって今夜の話の何の件だったんだろう、と何となく感じてはいたけど、それが私の身上調査だったとは…。 見つめあったまま、先生はじりじりと私に近寄り、肩からバッグを外すと、それを床に置いた。 そんな先生に圧迫されて思わず後ずさると、壁に背が着いた。 ゆっくりと、私の髪に先生の手が伸びる。 何をするのかと思ったら、髪をまとめて夜会巻き風に止めていたコームが抜かれて、髪が肩に落ちた。 「さっきから、これを外したらどうなるんだろう、と思っていた」 手にしたコームを、私の上着のポケットに滑り込ませる。 肩に落ちた髪を愛おしそうにひと房手にすると、毛先まで指を滑らせていく。 「…先生の眼鏡は、カムフラージュですか?」 ささやかな抵抗。 その気になればこういう男性は、目だけで誘うことができるんだ。 自分に自信がある人しかできないはず。 「いや、あれはブルーライトカット。前髪が邪魔にならないようにもあるな」 そう言いながらくすりと笑う。 その顔に本当の彼を垣間見た思いがして、気持ちが溶けそうになる。 いつも、不用意に人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている先生が、今は大人の男のオーラ?を纏って、全身で私を絡め取ろうとしている。 髪から離れた手が、頭の後ろに回り、ゆっくりと顔が近づいてくる。 そのまま、唇が一瞬触れた。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!