6276人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
あまりの衝撃で、目を閉じるのを忘れてしまった。
「いや…?」
先生は一度閉じた目をゆっくりと開き、数センチ離した唇でそう聞いてくる。
「…いや…じゃ、ないけど、心の準備が」
やっと出た言葉がこれじゃあ、絡め取られたのと同じ、と自分で自分に突っ込んだけど、もう遅い。
困ったことに、断る理由が全く思いつかないのだ。
「小説の設定としては、落ち着いた夫婦のような関係より、あり得ない男女のエピソードの方が売れそうだけど?」
編集者は最初の読者。
もちろん私も先生の書くものが好きで、作家としての筋の通し方にも好感を持っていたし、男として見たことがなかった訳じゃない。
ただ、先生にとって私は、単純に仕事上での関わりがある人というだけで、まさか女として見てもらえるとは思ってもいなかったのだ。
容姿も行動も、女っ気があまりないのは、自分でも分かっている。
彼氏と呼べる人がいたのは、しばらく前だった。
それにもう、先生は40を過ぎているはず。
失礼ながら私の中で、40過ぎの人はそういうことは考えないもの、と何となく思い込んでいた。
「…作家と編集が何かある関係になるなんて、いいんでしょうか?」
牽制するつもりで言ったのに、
「刺激的だろう?」
そう言ってニヤリとする。
「ありのままに書くわけじゃないし、キミが編集だから好きなわけじゃない。
どんな台詞なら女心に響くのかを知りたいだけ」
そう言って、
「男と女の始まるきっかけなんて、何でもありだ。
その先、その関係を育んでいけば恋人になり、夫婦にまでになるのかもしれない。
それきりの関係なら一夜の思い出さ」
…要は一夜の関係でもいい、ということか。
私が逃げないのを良いことに、左手が背中に周り、抱き寄せられる。
頤に手をかけ上向かせると、再び唇が重ねられる。
押しつけるでもなく、ちょうどいい感触で、味わうようにゆっくりと角度を変える。
先生は、私の反応を見ながら合わせてくる。こんな甘いキスは初めてかもしれない。
「…今夜は帰さない、は古いか?」
顔が離れると、囁きながらなぜか自分のシャツのボタンを外していく。
空いた胸元に私の手を導き入れ、裸の胸を触らせる。
なめらかな肌の感触に、感情の逃げ場がなくなる。これは破壊的だ。
「妃奈乃、そう呼んでみたかった、では?」
頭の後ろに手を回し、わざと耳元に口を寄せて囁いてくる。
引き留める理性を、アルコールが緩和している。
胸板に両手を当てて少しだけ身体を離し、彼の顔を見上げる。
「ワイン、わざと飲ませた?」
「まあね。さすがに素面じゃ無理かな、と」
右の口角が少し上がり、悪い口がそう言う。
こうなったら、私も悪い素振りをしないと、と何となく思ってしまった。
右手を伸ばして、先生の頬に触れる。
「簡単に手に入るから私なの?」
最後の足掻き…。
先生は私の頬を撫で、
「これでも時間を掛けて準備したつもりなんだけど?
妃奈乃も不信感を抱くことなくここまできただろう? 周りの誰も気づいてないし」
目が、どう? と聞いてくる。
「…今夜の設定は、恋人同士?」
「そうさ、それも大人の、ね」
「こうやって、何人も口説いてきたの?」
ちょっと意外そうな顔になって
「それほど不誠実ではないと思うけど? 面倒になりそうなことはしない」
そうだ、仕事以外のことに煩わされるのを、何より嫌がる人だ。
気分で人を抱くようなことはしないだろう。
「じゃあ私は、先生のお眼鏡に適ったってこと?」
彼は今度こそ微笑んで、両手で私の腰を抱き寄せ、頷いてみせる。
その首に両腕を回す。
「…たまには、流されてみるのもいいかもしれない」
最初のコメントを投稿しよう!