その夜

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あまりの衝撃で、目を閉じるのを忘れてしまった。 「いや…?」 先生は一度閉じた目をゆっくりと開き、数センチ離した唇でそう聞いてくる。 「…いや…じゃ、ないけど、心の準備が」 やっと出た言葉がこれじゃあ、絡め取られたのと同じ、と自分で自分に突っ込んだけど、もう遅い。 困ったことに、断る理由が全く思いつかないのだ。 「小説の設定としては、落ち着いた夫婦のような関係より、あり得ない男女のエピソードの方が売れそうだけど?」 編集者は最初の読者。 もちろん私も先生の書くものが好きで、作家としての筋の通し方にも好感を持っていたし、男として見たことがなかった訳じゃない。 ただ、先生にとって私は、単純に仕事上での関わりがある人というだけで、まさか女として見てもらえるとは思ってもいなかったのだ。 容姿も行動も、女っ気があまりないのは、自分でも分かっている。 彼氏と呼べる人がいたのは、しばらく前だった。 それにもう、先生は40を過ぎているはず。 失礼ながら私の中で、40過ぎの人はそういうことは考えないもの、と何となく思い込んでいた。 「…作家と編集が何かある関係になるなんて、いいんでしょうか?」 牽制するつもりで言ったのに、 「刺激的だろう?」 そう言ってニヤリとする。 「ありのままに書くわけじゃないし、キミが編集だから好きなわけじゃない。  どんな台詞(セリフ)なら女心に響くのかを知りたいだけ」 そう言って、 「男と女の始まるきっかけなんて、何でもありだ。 その先、その関係を育んでいけば恋人になり、夫婦にまでになるのかもしれない。  それきりの関係なら一夜の思い出さ」 …要は一夜の関係でもいい、ということか。 私が逃げないのを良いことに、左手が背中に周り、抱き寄せられる。 (おとがい)に手をかけ上向かせると、再び唇が重ねられる。 押しつけるでもなく、ちょうどいい感触で、味わうようにゆっくりと角度を変える。 先生は、私の反応を見ながら合わせてくる。こんな甘いキスは初めてかもしれない。 「…今夜は帰さない、は古いか?」 顔が離れると、囁きながらなぜか自分のシャツのボタンを外していく。 空いた胸元に私の手を導き入れ、裸の胸を触らせる。 なめらかな肌の感触に、感情の逃げ場がなくなる。これは破壊的だ。 「妃奈乃(ひなの)、そう呼んでみたかった、では?」 頭の後ろに手を回し、わざと耳元に口を寄せて囁いてくる。 引き留める理性を、アルコールが緩和している。 胸板に両手を当てて少しだけ身体を離し、彼の顔を見上げる。 「ワイン、わざと飲ませた?」 「まあね。さすがに素面じゃ無理かな、と」 右の口角が少し上がり、悪い口がそう言う。 こうなったら、私も悪い素振りをしないと、と何となく思ってしまった。 右手を伸ばして、先生の頬に触れる。 「簡単に手に入るから私なの?」 最後の足掻(あが)き…。 先生は私の頬を撫で、 「これでも時間を掛けて準備したつもりなんだけど?   妃奈乃も不信感を抱くことなくここまできただろう? 周りの誰も気づいてないし」 目が、どう? と聞いてくる。 「…今夜の設定は、恋人同士?」 「そうさ、それも大人の、ね」 「こうやって、何人も口説いてきたの?」 ちょっと意外そうな顔になって 「それほど不誠実ではないと思うけど? 面倒になりそうなことはしない」 そうだ、仕事以外のことに煩わされるのを、何より嫌がる人だ。 気分で人を抱くようなことはしないだろう。 「じゃあ私は、先生のお眼鏡に(かな)ったってこと?」 彼は今度こそ微笑んで、両手で私の腰を抱き寄せ、頷いてみせる。 その首に両腕を回す。 「…たまには、流されてみるのもいいかもしれない」
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