その夜

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そんなふうに余裕ありげに言ってしまえば、恋愛経験が少ないのをカムフラージュできるだろうか。 仕事の時は大人の女を装っている私だけど、中身は、現実にはあり得ない恋、その時限りの愛、そんなロマンチックな話が大好きだ。 だから実体験はなくても、頭の中にシミュレーションはできている。 少し伸び上がって、私からそっとキスをした。これで受け入れたことになる。 「期待通りだ」 先生の目が笑って、唇が塞がれ、今度は離れずに本気のキスになった。 身体の関係へとつながる、熱いキス。 これが一夜限りになるのか、本気の恋になるのか、まだ分からないけれど、今夜はお互い、その気になっていることは分かる。 キスだけなのに、頭の芯が溶け始めている。 …先生はどのくらいの経験者なんだろう。 これから起こることに、自分は耐えられるだろうか、と思ったりする。 しばらくして、足下のバッグもそのままに、肩を抱かれてリビングの奥のドアへと促された。 入ったことのない、先生の寝室。 真ん中にベッド、片側は一面クローゼットで片側は本棚だ。 ベッドサイドの照明だけが、オレンジの光を投げている。 自分のシャツを床に落とした先生が、私の上着を脱がせていく。 「俺の眼鏡がカムフラージュなら、妃奈乃のスーツもそうだろう? いつも(よろい)のように見えていた」 仕事の時はいつもパンツスーツだ。 どちらかというと、男性っぽいかっちりとした形を選んでいた。 もっと年配の作家に会うこともあるし、編集者は男性が多いので、肩を並べて仕事するには、女の顔を見せたら負けるような気がしていた。 「こんなにしなやかなのに」 そう言いながら、ブラウスの上から抱きしめて、丸い肩を撫でられる。 背中の真ん中に、縦に並んだボタンに気づいて、彼の手が動き出す。 丸い小さなボタンを、ひとつずつ外していく。 「子どもの頃、やせっぽちだったから胸もお尻も小さいの」 言い訳のようにそう言ってみる。魅力的と言われる女性の身体とはほど遠い。 「…そんなこと、気にしなくていい」 ブラウスが背中から開かれて、両腕から抜かれる。 「こんな服があるんだな。なんか色っぽいのを隠していたみたいだ」 下着だけになった私の、耳元に口を寄せながら彼が言った。 「心配するといけないから言っておくけど、俺には子種がない。  まあ、万が一できるようなことがあったら、妃奈乃がしたいように責任は取るから」 ちょっと驚いて顔を上げると、彼の瞳が見返してきた。 「ちゃんと病院で調べてる。それで離婚したようなもんだからな」 そうなんだ、では、それなりに奥さんだった人のことは愛していたんだ。 下着の留め具が外されて、上半身があらわになった。 「想像以上だ。妃奈乃」 吐息まじりにそう言われ、唇が首筋を滑っていく。 まだ身体に理性が残っている。もどかしい感覚。 「先生…」 思わずその身体を抱きしめて、自分を支える。 「悠哉(ゆうや)、と」 そうか、悠一郎は筆名だった。 私の手を自分の肌に導き、触らせながら、彼の手は動き、履いていたものが落とされた。 下着だけになり、キスをしながらゆっくりベッドに倒される。 「どう、してほしい?」 いたずらっぽく私の目を見て彼が言う。 「どうされるのが、好き?」 「そこも観察するの?」 「もちろん」 なんて返せばいいか、ちょっと迷って、 「あなたの書きたいように…甘く」 そういうと、彼の目が笑って、私の両腕を頭の横に置いて指を絡ませた。 もう、動けない。 「…了解」 唇が身体を滑り始めた。
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