6260人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
返してあげない 【70,000スター御礼】
「おっ、珍しいな、こんなところで…」
エレベーターのドアが開いて、入ってきた人が私にそう言った。
うちの社屋には5階に会議室がある。
いつもは1階の打ち合わせルームで済んでしまうことが多いので、5階まで上がってくることはあまりない。
それでもたまに、会議の人数が多いときや、1階がすべて使われていたりすると、上の会議室を使って、ということになり、今日はそういう日だった。
入社以来、ずっと総務部にいる中藤くんは、私にとって数少ない同期だ。
新入社員は入社から1ヶ月間研修があって、同期のメンバーとは毎日顔を合せていた。
彼と私は中途採用組で、新卒の子たちとはちょっと違っていたので、当時はよく喋っていた。
その後配属が別れ、私が編集になって外に出る機会が増えると、社内で顔を合せることもほとんどなくなった。
「元気だった? 前、会ったのは式典のときか…?」
「そうだね。中藤くんも?」
「ああ、相変わらず役員の皆様の手先となって働いてるよ」
「ふふふ、他に人がいたら怒られるよ」
彼はスーツの腕に資料を抱えている。
「もう同期も少なくなったな」
「そうだね、女子はどんどん減るしね」
「良かったら、呑みにでもいかないか? 同期のよしみで…」
そんな風に話しているうちに1階へと着く。
ドアが開いたとき、私は何気なく左手を上げて腕時計を見た。
「…桐生、結婚したのか?」
薬指の指輪を見たらしい。
「あぁ、そうなの、2ヶ月前くらい前…?」
「そうなんだ…」
なんか、がっかりしたように彼は言う。
「じゃあ、行くね、また…」
私はさりげなく編集部へと戻っていく。彼がそれからどうしたのかは知らない。
…これが悠哉さんの言っていた、色目を使われるってことかな?
だって、同期で呑んだことなんて、最初の数年だけだ。
そう言えば、前の記念式典の後も、ずっと隣に座られて、あれこれ話し掛けられていたな。
ちょっとはうぬぼれてもいいんだろうか、と思ったけど、彼のことは本当に、同期としか思っていなかった。
もうきっと何もしてこないだろうけど、不用意に近寄るのは止めておこう、と思う。
入社当時は社内報で、結婚した社員の紹介をしていたけど、今はプライベートなことは公表されない。
それに私の場合、編集と作家だから、不用意に外で話さないように、と編集長が言ってくれて、編集内部の人しか知らなかった。
もちろん総務には届けてあるけど、苗字が変らなかったので、ほとんど気づかれていない。
こういうとき、指輪をしているのは効果があるんだな、と改めて思って可笑しくなった。
最初のコメントを投稿しよう!