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でもね、まったく平気ではないんだ。
不安はないけど、気持ちはざわついている。
もし彼が、「ファンの人からもらった」と普通に花を見せたら、私は何も気づかずにいただろう。
事務所には毎日行かないので、「せっかくだから、持って帰って家で飾ろう」と言ってたかもしれない。
封書で届いたファンレターは、いつも事務所の棚に何気なく積まれている。
彼が時々、「こんな感想が来たよ」と見せてくれることもあるけれど、自分から勝手に見ることはしない。
だから彼が、いつもの大人の顔でスルーしてしまえば、何も起こらなかったのだ。
結婚生活が破綻して、赤の他人となったはずの人から、「成功してくれて嬉しい」と言われるのは、確かに変な話だ。
彼が怒って、一緒に届けられた花に八つ当たりした気持ちは、分からないでもない。
それでも私は、離婚して10年以上会っていなかった人の勝手な言い草に、平常心でいられなかった彼のことを、ちょっと複雑な気持ちで眺めている。
花の贈り主は今、他の人と結婚して子どももいる、と聞いたことがある。
彼にとって、離婚の原因が自分にあったという過去は、今も心に刺さった抜けない棘なんだろう。
今夜、美味しそうにワインを呑む彼は、自分の心の中を見て見ないフリをしている。
…この人は、まだ心にこんな大きな傷を抱えている。
痛みを知る人だからこそ、優しいのだ。
だからきっと今夜は、彼に抱かれるだろう。
他人のせいでそうなるのは本意では無いけど、それで彼の心が満たされるのなら、それでいい。
ただ、そう思った。
* * *
「妃奈…」
食後、シンクでお皿を洗っているときから、彼が背中に貼り付いてきた。
腰を抱かれ、髪を除けてうなじに唇を付けられる。
「…う…ん、ちょっと…待って」
何とか食器を洗い終わって手を拭いていると、顔を後ろへ向けられ、唇を塞がれる。
それなりに呑んだつもりだけど、今夜はまだ、理性が残っている。
悠哉さんの方が、ワインに呑み込まれてしまったようだ。
「…ん、ねぇ…明日の仕事は?」
私は普通に仕事なのだ。だから自然にセーブしてしまったのだと思う。
「…急ぎは、ない。妃奈は普通に仕事…?」
「うん、そうだよ、だから…」
って言っているのに、身体の向きを変えられ、唇を塞がれる。
身体に腕が巻き付き、頭を手のひらが包み込んで身動きができない。
彼は絶妙なタイミングで唇を啄み、理性の残る私の心を溶かしていく。
するりと入り込む舌が、私の舌を誘う。
…そういう時のキス。
「…だから…? あっち行こうか」
唇が離れると、私の身体はベッドルームへと向けられた。
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