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その夜
「桐生くん、これ」
そう言って、プリンターから出力した紙を手に私を呼ぶのは、担当している作家の本庄悠一郎先生。
私は、広いリビングの半分を占めている、大きな一枚板のテーブルセットの端の椅子に座り、自分のパソコンに向かいながら、その作業が終わるのを待っていたのだ。
「ありがとうございます」
先生に近寄ると、お礼を言ってその紙を受け取り、一度ざっと目を通す。
次の連載のための取材希望先と、用意して欲しい資料の一覧が書かれている。
…良かった、これで帰れる。
今日は金曜日、それほど無理難題は書かれていないから、月曜日以降の対応で間に合うだろう。
明日・明後日は無事に休みが取れそうだ。
先生の書くジャンルは推理ものやサスペンスで、ネタになりそうなものについてアイディアをお聞きし、取材が必要なものは具体的な日程を決める。
今、うちの社が手がけているものは、月刊の小説誌に連載しているもので、あと2回で終了、原稿はもうできている。
それで、今日は次の連載についての打ち合わせに来ていたのだ。
ここは、繁華街から少し離れた丘の上に立つ先生のマンションで、他に事務所を持たない先生は、広い自宅のリビングを事務所代わりにしている。
だから彼のマンションと言っても、他社の編集者も皆ここに来る。
車を持たない私は、ここから最寄り駅まで15分ほど歩かなければいけない。
もう夕方から夜に向かう時間帯だし、早く帰れるならありがたい。
「この後、ちょっと打ち合わせたいことがあるんだが、時間掛かりそうだから、良かったら夕食でも食べていかないか?」
大きなディスプレイのパソコンが鎮座する机に寄りかかり、腕を組んだスタイルで、眼鏡の奥から私を見て聞く先生に、一瞬答えが遅れた。
担当にとって、その作家が望むことはなるべく叶えなければならない、と思っている。
こんなところに取材にいきたい、とか、こんな人に会いたいとか言われれば、可能な限り準備するのが私の仕事だ。
「…はぁ、構いませんが」
使命感で私がそう言うと、先生は少し口角を上げて、良かった、という表情を見せた。
珍しいことじゃない。
まれに校正原稿の受け取り日などに間に合わず、ここで仕上がるのを待っているときは、「珈琲でも飲んで待っていて」とか、遅くなると気を使って、「冷蔵庫にあるものを好きに食べて」と言われたりする。
いつも夏の終わり頃には、リビングに続く広いベランダで、各社の編集が集められて暑気払いとばかりごちそうになることもあるし、他の社の男性編集者たちは、夕飯をご一緒したこともあるらしいけど、私が誘われたのは初めてだった。
話しているうちに先生のスマホが鳴り、話が途切れた。
他社の編集からのようで、なかなか終わらない。
そのうち先生は執筆用のデスクに向かい、パソコンの前で何かを調べ始めた。
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