幸せの味

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幸せの味

「じゃあ、帰ろうか」 「うん」  大きな右手を差し出されて、千鶴はなんの躊躇もなく指を絡めて、その手をきゅっと握った。スーパーで買い物をして、同じ家に帰る。  ドリンク類の重い荷物は樹の左手に、野菜類などの比較的軽い方は千鶴の右手に。いつものさりげない優しさがこそばゆい。  そのこそばゆさを感じられている自分に、千鶴は密かにほっとした。 ——大丈夫。わたしたちは、わたしは、まだ大丈夫  自身に強く言い聞かせるように心の中でつぶやいて、自分の感情の機微を拾って再確認する。  半ば無意識にその作業を繰り返す頻度が、最近は増えてきた。無意識が意識として確認できるほどに。  幸せを感じる頻度が増えるほど、それに比例して不安が訪れる感覚も短くなる。  樹の大きな手は、どこまでもあたたかい。  この場所があるのは、当たり前じゃない。  一度緩んだ樹の手が、指のポジションを整えるように開いたあと、隙間ができないようにぴったりと握りなおしてくる。  はじめて樹と手をつないだ時は、心臓が勝手に脈を速めて、手のひらに滲む汗が気になって仕方がなかった。一度手を離して、しっかりと手の汗をふいてから、もう一度握りなおしたい。  そう思っていても、それを言い出すことすら恥ずかしくてできなかった。ふれあっている部分が、火傷してしまいそうなほどに熱く感じる。  ドクドクと、通常時の三倍くらいの働きをしているのではないかと疑いたくなるほど勤勉な心臓のせいで、わざわざ鏡で確認なんてしなくても、顔が真っ赤になっていることがわかる。  結局、樹から握られた手を、自分から離すことも、放してほしいと言うこともできなくて、息をするだけで精いっぱいだった。  手をつなぐ。たったそれだけの行動に、いちいち思考が大きく振り回される。  手の汗を気持ち悪がられたらどうしよう…。樹は、そんなことを思うような人じゃない。  でも言えないでいるだけで、本当は気が付いているかもしれない。けれど、千鶴の気のせいでなければ、樹の手も、同じくらい熱い…。  感情が、ポジティブとネガティブを反復横跳びしているみたいに行ったり来たりして、手をつないだだけで、ものすごく気持ちが疲労した。  しかし、それ以上の幸福感に、このまま天に召されても幸せなのかもしれないと思うほど、千鶴は本当に嬉しかった。  そんな日もあったなと、付き合い始めたばかりの頃の気持ちを、千鶴は思い出していた。  思い出すことはできても、今はもう手をつなぐくらいで、いちいちドキドキしたりはしない。分け合う手のぬくもりも、ただ心地がいいだけで、火傷しそうなほどの昂ぶりにはならない。  ◇ 「ねぇ、わたし一緒に台所に立つ必要ないんじゃないかな?狭いし、カレーなら一人で作ったほうが早いと思う」  隣に立って人参を切っている樹に対して、果たして自分がここに居る意味はあるのだろうかと、千鶴は率直な疑問をぶつけた。 「今日は俺が作るから」  そう言って張り切る樹の言葉に甘えて、本でも読もうかと思っていたら、「ちょっとこっちに来て」と呼ばれて、千鶴はそのまま樹の作業を眺める羽目になった。 「まぁ、確かに一緒に台所に立たなくてもいいんだけど、千鶴が隣に居てくれたら嬉しいなと思って。嫌だった?」  嫌ではない。嫌なわけがない。樹の隣は居心地がいい。例えばそれが狭いアパートの台所でも。  ただ、台所に二人で並んで仲良く料理をするのだけは苦手だった。ひとりの方が料理が捗るからとかそういう事ではなく、樹のことが好きだからこそ、ここで一緒に並んでいたくはないのだ。  千鶴には、どうしても思い出してしまう光景がある。 「本当の事を言うと、少し苦手なの。並んで台所に立つ姿って、仲良しの象徴みたいで…」 「仲良しの象徴になればいいじゃん。俺たちが」 「うん、まぁ、そうなんだけど……」  樹が、困った笑顔で千鶴を見遣る。  鍋に少量の油を注ぎ火にかけて具材を入れて、樹が千鶴に木ベラを渡した。 「はい。美味しくなるようにおまじないかけながら炒めてください」 「ふふっ。なにそれ」  眉尻を下げて、左手の甲を口元に添えて微笑む千鶴。その、少し困惑を孕んだような千鶴にしかできない笑顔を、樹がどれほど愛おしく思っているか、千鶴は知らない。  昔大ヒットした歌姫のバラードを口ずさみながら具材を炒める千鶴の横顔を、三日月のように目を細めてほほ笑みながら、樹が見つめている。 「千鶴さ、その曲好きだよね。だから俺もよく聴くようになったよ」 「うん。この曲もだけど、この曲を歌ってる歌手も大好き。失恋ソングが多いんだけどね、共感できる歌詞が多くて。もしわたしと別れたあと樹が偶然この歌を聴いたら、わたしのこと思い出したりするのかなぁ、なんて……。あ、ごめん…」  千鶴が慌てて失言を詫びる。  けれど、一度口からついて出た言葉は、どう足掻いても取り消すことなんてできない。  例えすぐに訂正したとしても、届いてしまった言葉は、つけてしまった傷は、なかったことになど絶対にならない。  一瞬歪んだ樹の顔に、千鶴の罪悪感がこみ上げる。 「……うん。もし、別れることがあれば、きっとその曲を聴くたびに千鶴を思い出すと思う。でも、俺は一生別れたくないと思ってるよ」  樹を傷つけた事実に、傷つけた千鶴も傷ついた。 「ごめん、樹……。ありがとう」  軽率な言葉で「うそ、今のは全部冗談だよ」と、笑い飛ばせれば少しは楽になれるのだろうか。  でも、うっかり言ってしまった言葉をなかったことにするために、更に意味のない言葉を重ねることは、より傷を抉ってしまうことになるとわかっているから、ただ、千鶴は謝ることしかできなかった。
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