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「彼氏との同棲は順調?」
唯一なんでも話せる同期の吉岡あずさとは、月に数回ランチを共にしている。
二人とも普段は節約の為にお弁当組で、会社では一緒に食べることもあるが、社内の共有スペースではプライベートな話は互いにしない様に気を遣い合える仲だ。
特に、恋愛話を知り合いに聞かれる場所でするのが苦手だという千鶴の性格を理解してくれている。
きちんと線引きをして、踏み込んでほしくないところには無理に入ってこないところに好感を抱いているし、尊敬もしている。
「順調だよ。怖いくらいに」
Aランチのパスタセットを口に運びながら、双方の近況報告をしあう。
「なんで怖いのよ。って、まぁうん、わからなくもないけど」
あずさには、両親の離婚で恋愛に希望を抱けなくなったことは話していた。
「でもよかった。あたしも、二人を会わせた甲斐があったってことよ」
「わたしはただの人数合わせだったくせに?」
「結果よければ全てよし!でしょ。それまでの過程がどうとか、どうやって出会ったかなんてどうでもいいと思ってるから、あたしは」
*
入社して一年目の秋に、あずさから合コンに誘われた。千鶴は恋人を作る気は全くなかったし、当然結婚願望も一切なく、一人で生きていけるだけの貯えをしておきたいからと、飲み会にもほとんど参加をしていなかった。
「千鶴お願い!急にひとり来られなくなったの。こっちだけ人数少ないなんて、最初から向こうのモチベーション下げるようなことはしたくないのよ」
あずさが拝むように手を合わせて、千鶴の前に立ちはだかる。
「わたし彼氏はいらないって知ってるでしょ?」
「わかってる。自己紹介でそう言ってくれてもいいから!会費はあたしが持つから、今回だけ!」
正直、全く気が進まなかった。
でも、あずさのことは好きだったし、今回だけという約束で、食費も一回分浮くのならと割り切って、渋々参加することになった。
「桜井千鶴です。今日は人数合わせで参加しました。恋人を作るつもりはないです。よろしくお願いします」
言われた通りの自己紹介をしたまでなのに、あずさの顔は若干引きつっていた。
でも、これで逆に本当に出会いを求めている人かどうかをふるいにかけられたと、後日あずさから言われた。実際に五対五の合コンで、千鶴に積極的に話しかけてくる人はいなかった。ただ一人以外は。
隅っこの席に座って、ひとり黙々と料理を堪能している千鶴の隣にやってきたのが樹だった。
「千鶴さんは、どうして恋人を作る気がないの?」
いきなり下の名前で呼ばれたことも、最初から核心を突くような質問をしてくるところも、そしていかにも女性慣れしているような仕種も、この人は苦手なタイプの男性だと思った。
「どうしてかなんて答える義理がないと思います。ただわたしは、恋も結婚も一生しないって決めてますから」
「じゃあ俺とデートしてみよう」
「はい……?あの、わたしの話聞いてました?」
にこにこと微笑む同年代の男性が、いかにも軽薄な遊び人に見えて、千鶴は遠慮なく胡乱げな目を向けた。
「恋も結婚もしない人生を否定はしないけど、デートもしないのは勿体ないよ。折角可愛いのに」
「わたし、ちゃらちゃらしてる人嫌いなんです」
「奇遇だね。俺もだよ」
糠に釘。暖簾に腕押し。いや、馬の耳に念仏?会話になっているようですれ違っている気がする。
「それに、名前も知らない人と一緒に出掛ける趣味はありません」
「樹。瀬名樹です。ほら、名前も知らない人じゃなくなった」
「そういう問題じゃ」
「それとも、デートしたら俺の事好きになりそう?」
「そんなこと……」
「だったら俺が最適だと思うんだけどな。恋をしない相手でもいいから、また会おうよ」
中身のない遊び人風情なのに、何故か樹の瞳が至極真剣なものに見えた気がした。
「変な人……」
それが、千鶴の樹に対する第一印象だった。
*
「まさか瀬名くんと千鶴が付き合うことになると思わなかったわ」
食後のコーヒーを飲みながら、感慨深そうにあずさが言った。
「わたしが一番そう思ってるよ。そもそもあずさが勝手に私の連絡先教えたんでしょ。わたし、会うつもりなかったのに」
結局、樹とその場で連絡先を交換することはなかった。
「どうしても千鶴の連絡先が知りたいってイケメンから頼まれたら断れないでしょ」
おどけたように言うけれど、あずさが簡単に断りもなく情報を漏らすような人間ではないことは知っている。きっと樹の話が相当上手だったのだろう。
恋をするつもりはなかったけれど、遊びの恋はもっと要らない。
あの時の樹がどうして千鶴に声を掛けてきたのか、なんでわざわざ連絡先を聞きだしたのか、本人からはまだ聞けていない。
「でもなんだかんだ誘いに乗ったって事は、実は千鶴も気になってたんじゃないの?」
「そういうのじゃなくて…。一回デートしたら飽きて、もう連絡来なくなるかなって思ったんだけど、なんかこう…ずるずると?」
決して惰性で付き合うことになったわけではないけれど、あずさに説明しようとすると上手く経緯をまとめることが難しい。
そもそも、揺れ動く自分の気持ちが定まらないまま、それでもいいと樹が全部受けとめてくれたから今がある。
「まぁ、千鶴が幸せならそれでいいのよ」
「それは、まだわからないよ……」
今は確かに幸せだと思う。でも幸せだと感じるほどに、それを失くしたときの悲しみは大きくなるだろう。
いつまで幸せでいられるのか、このままずっと樹と一緒にいられるのか、それはまだわからない。
「あのさ、千鶴。臆病になる気持ちも理解は出来るんだけどね」
いつになく真剣な表情であずさが覗き込んできた。
「幸せを感じた時は、ちゃんと『幸せだ』って認めてあげないと、本当はそこに在るはずの幸せだって逃げていっちゃうんだからね」
目に見えない『幸せ』をきちんと大事に出来ていない自覚がある分、あずさの言葉が千鶴の胸に刺さった。
「うん……。そう、だよね…」
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