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その日の仕事の帰り道は、樹とのこれまでに想いを馳せた。
数回デートさえしてしまえば、千鶴に対する興味なんて無くなると思っていた。でも実際は、何度も何度もデートを重ねた。樹を知れば知るほどに、最初の軽薄さは嘘のように印象が裏返った。
恋人はいらないと豪語していた千鶴が、樹と付き合うことになったのは、樹の誠実さに惹かれたからに他ならない。
「こんなに好きになるはずじゃなかったんだけどな…」
プラプラと小さく鞄を揺らしながら呟いた。
好きになれたことが『幸せ』な事なのだと、意識的にそう思おうとしないと、いつだってすぐに不安の比重が増していく。
漠然とした黒くて重いモヤモヤを、即席で用意した心の箱の中にぎゅうぎゅうと押し込んで、思考をポジティブに切り替えようと眉根を寄せた。
しかし、ポジティブって、一体なんだろう。そんなに簡単に前向きに気持ちを切り替えることができるのならば、悩み事なんてとっくになくなっている。
いつも繰り返す自問自答の先に、答えが用意されていることはない。
その時、すれ違った男性が振り返って声をかけてきた。
「もしかして、千鶴?」
そう呼ばれて男性の顔を見る。考えるまでもなく相手の名前はすぐに思い出せた。
「良太…くん」
それは千鶴が過去に唯一交際をした、高校時代の恋人だった。
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