嫉妬

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嫉妬

 最初から恋も結婚もしないと決めていたわけじゃない。千鶴は、自分には向いていないと、そう思ったから諦めた。  * 「ごめん、無理言って付き合ってもらって。どうしても聞きたいことがあって」 「ゆっくりはできないけど、今日は定時だったから大丈夫」  高校の時に付き合っていた彼から、少しだけでいいから話がしたいと突然呼び止められた。  立ち話では落ち着かないからと、近くにあったコーヒーの全国チェーン店に入り、ガラス窓に面した奥の席に向かい合って腰かけた。  帰宅ラッシュの時間帯。千鶴たちが座った席からは、足早に横切っていく人たちが見える。 「六年?いや、七年ぶりかな。でも、すぐに僕のことわかってくれたね。なんか、嬉しかった」 「それは、さすがに覚えてるよ。もう高校卒業してからそんなに経つんだね。良太くんこそ、よくわたしだってすぐに気が付いたね」 「気付くよ。ずっと気になってたことがあったんだ。もしも偶然会えたら、っていつも思ってた」  外には疲れた顔の社会人がたくさん歩いている。  自分たちも二十代を折り返して、社会に揉まれた日々を過ごしているうちに、学生時代の記憶なんて思い出そうとしない限り思い返さなくなってしまった。 「千鶴はすっかり大人の女性になったね」 「ううん、中身は全然変われてないよ。それを言うなら良太くんこそ、スーツ姿初めて見た」 「ドキッとした?」 「……ビックリは、した」  眉尻を下げ目を細めた良太が、からっとした笑い声をあげた。 「ははっ、相変わらず正直者だ。嘘もお世辞も苦手だったもんな、千鶴は」  見た目は大人の男性になっていたが、笑った時の表情もその声も全く変わっていなくて、一瞬だけ高校時代に戻ったような感覚に陥った。  しかし、外の雑踏と、週末の疲労感が、今のこの現実を思い出させてくれる。  一転して、姿勢を正した良太が真剣な眼差しで千鶴を射貫いた。 「嘘は言わなかったけど、本当も言ってくれなかったよね」 「え?」 「僕は、どうして突然振られたのかな」  *  千鶴は高校時代、ずっと図書委員会に所属していた。  もともと読書は好きだったが、読むジャンルは偏っていたし無類の本好きというわけではない。でも、どうしても図書委員になりたくて、毎年いの一番に立候補していた。  千鶴は、小学生の時から図書室そのものが大好きだった。そこで本を読んだり勉強していれば、下校時刻ギリギリまで学校で過ごせるから、家にいる時間は短くて済む。  千鶴が小学校五年生の時、母親が再婚した。  母は何度も何度も「お母さんが結婚しても本当にいいの?」と千鶴に確認して来た。  母は辛いと言ったことも大変だと愚痴をこぼしたこともなかったが、時々体調を崩したり、見ているこちらが悲しくなるような笑顔を無理に作ることだってあった。  片親の苦労なんて、千鶴のお手伝いだけでどうにかなるものではないことくらい小学生にだってわかる。  母が少しでも苦労せずに済むのなら、それに越したことはない。  なにより、新しい父親の優しい人柄は、初対面の時から伝わってきた。  千鶴に一通りの自己紹介と、母と結婚することを決めた経緯を説明してくれたあと、新しい父は慈愛を込めた表情で、揺れる千鶴の瞳を捕らえてから言った。 「僕のことは、無理に本当のお父さんだと思ってくれなくていいよ。でも僕は、千鶴ちゃんを本当に自分の子だと思って接していきたいんだ」  お父さんだと思わなくていいというその言葉は、確かに千鶴の気持ちを軽くした。  けれど、継父は初婚だと聞いていたし、一応新婚家庭ということになる。  新しく引っ越した家では継父は在宅ワークで、母は負担の少ない時短勤務に切りかえて、苦労して遅くまで働くことがなくなった分、千鶴より先に帰宅していることも多かった。  そこはかとなく感じる二人の甘い雰囲気に居心地の悪さを覚えていたなんて、到底言えることではなかったし、そんなことを思ってもやもやする自分のことも嫌だった。  新しい家族の形に不満なんてなかったが、学校で過ごす時間は気持ちがとても楽だった。  中学でも高校でも、そうやってなるべく学校で過ごす時間を増やした。  良太は千鶴と同じで、一年生の時からずっと図書委員だった。  クラスは違ったけれど、図書当番が一緒になる度に二人の距離は少しずつ縮まった。 「千鶴ちゃん、この本読んだ?」 「読んだ!すっごい面白かった!まさか主人公が犯人だなんて意外過ぎて思わず声が出ちゃった」 「ははっ、わかるよ。じゃあこれも読んでみない?」 「それって恋愛小説でしょ?わたしそういうのあんまり読まないから」 「確かに恋愛成分も強いけど、ミステリー要素も大きくてそこが面白いんだよ。千鶴ちゃんもきっと好きになると思うけどな」  良太から勧められた本に今までハズレがなかったことは確かだけれど、どうにも食指が動かない。 「ごめん。やっぱりそれはいいや」 「千鶴ちゃんってホント正直だよね。他の人なら気を遣って借りるところだよ、今のは。でも、そういうとこ、好きだな」 「え……?」  良太への気持ちが育つのに、そう時間はかからなかった。  二年生になってしばらく経った頃、図書室に二人きりになった時に、良太から告白された。  千鶴も、自覚できるほどには良太に恋心を抱いていたし、断る理由もなかった。  休みの日には一緒に図書館に行って勉強したり、映画を観に行ったり、放課後の図書室でこっそりふれるだけのキスを交わした。健全なお付き合いは、そのまま順調に続いていくと思っていた。  段々と良太を想う時間が増えて、寝る前にはその日の会話を反芻したり、送られてきた何気ないメッセージを飽きずに何回も眺めたりした。  クラスが違うから約束でもしない限り、委員会以外で校内で会うことは意外とない。  偶然すれ違った時に少しでも可愛く思われたくて色付きのリップをぬったり、ガラスに映るたびに前髪を整えたり、移動教室の度にそわそわとした。  なんとなく、今までの千鶴とは違う人間になってしまったようなきまりの悪さを感じていたが、多分それ以上に浮かれていたのだと思う。  いつの間にか、淡い恋心ではなく、本気で良太に恋をしていた。  高校三年生になり、良太との付き合いももうすぐ一年になろうとしていた頃、家に誘われるようになった。 「週末、うちに来ない?両親は二人とも出かける用事があっていないんだ」  親の居ない彼氏の部屋に遊びに行く。  それがただのお勉強会で終わらないかもしれないことくらい理解できるお年頃だ。 「ごめん、その日は用事があって……」  なぜか、最後の一歩を踏み込む勇気がどうしても持てなくて、その誘いに乗ることはできなかった。  しかし、そう何度も断り続けることもできない。三回ほど違う理由で断り続けた罪悪感も相まって、次こそ覚悟を決めようと意気込んでいたある日。  何気なく渡り廊下から外を眺めていた時に、良太を見つけた。  良太の隣には、新しく図書委員になった二年生の可愛い女の子がいた。楽しそうに談笑している二人は千鶴に気が付いていないし、二人の話し声までは聞こえてこない距離だ。  その様子を眺め続けてもいい事なんてないとわかっているのに、足に根が生えたようにその場から動けなかった。  良太がなにか冗談でも言ったのかもしれない。一際楽しそうに笑った女の子が親し気に良太の腕に手のひらをあてた。  良太もそれを振り払うことはなかった。  やがて添えていた手を放した女の子が手を振りながらその場を離れて、良太も手を挙げて千鶴が居る方とは反対側に歩いて行った。  そのままこの場所に立っていたらその子とすれ違ってしまうけれど、すぐには動けなかった。そして近くまで来たその子が、千鶴がいることに気が付いて声を掛けてきた。 「桜井先輩、こんにちは。今、良太先輩とこの前映画化した恋愛小説の話してたんですけど、良太先輩って面白い人ですね」  空気漏れのような声で曖昧な相槌を打つことしかできない千鶴とは対照的に、快活で爽やかな彼女がひらりとお辞儀をした。 「あ、わたし今日図書当番なんです。じゃあ失礼します」  彼女の言葉に他意があるわけでも敵対心があるわけでも、きっとこの時は双方に恋心があったわけでもないと思う。  けれど、確かに千鶴の中の何かが崩れる音がした。彼女の姿が見えなくなったのを確認して、急いでトイレの個室に駆け込んだ。  そして、声を殺して泣いた。  ただ他の女の子と話していただけの良太を見て、息が詰まるほど痛む胸にも、勝手にこぼれる涙にも、千鶴は向き合うことができなかった。  いや、向き合おうとしなかった。  なによりもたったそれだけの光景で、いとも簡単に揺らぐ気持ちに、彼を信頼できないと思う自分自身に、ひどく失望した。  ずっと変わらずにいるなんて、無理だと思った。  数日後、良太と待ち合わせをして、千鶴から別れを切り出した。 「僕、千鶴になにかした?家に誘ったのが嫌だった?それなら別に毎回外でのデートでも構わないよ。だから別れたくない」 「違うの。三年生になってから、急に成績が落ちて、このままだと目指すところに進学できそうになくて。これからは一人で集中して勉強したい。遊んでる時間がないの」 「だったらそれでもいい。会わなくても別れる必要はないでしょ。お互いの進学が決まったらまた、」 「ごめんなさい。わたしそんなに器用じゃない。本当にごめんね。今までありがとう」  深く頭を下げて、再び良太の顔を見ることもなく背中を向けて走り出した。  千鶴は、逃げたのだ。  成績が落ちたといっても順位が五番ほど下がっただけで、千鶴の成績なら進学に問題はないし順位もすぐに巻き返せる。  でも、嘘でも気持ちが冷めたとか嫌いになっただなんて言えなかった。  千鶴は、自分の罪悪感が軽く済む方の嘘を選んだ。
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