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「わたしは、正直者じゃないよ」
「最後だけはね…。あの時、嘘をつかれたことはすぐにわかったよ。上位成績者五十人までは学年便りのプリントで公開されるんだから」
「そうだったね…。うん、ごめん」
別れた後にそれを思い出したが、その時はそこまで考えて言い訳を練ることはできなかった。
「謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ理由が知りたい」
少しだけ語気を強くした良太が、テーブルの上で拳を握る。
それをゆっくり開いてコーヒーカップを手に取り、一口啜った。
「あの後、ずっと未練があったわけじゃない。今、付き合ってる人だっているし。でも、どうして振られたのかだけわからなくて…。知らないうちに傷付けていたなら謝りたいし、僕に非があったのなら今の彼女のために直したいんだ」
良太の表情を見て胸が痛んだ。今更になって、千鶴が思っていたよりもあの時良太を傷付けていたのだと思い知る。
「僕はあの時、本気で千鶴が好きだった。千鶴も僕のことを好きでいてくれてると感じてた、最後まで」
「うん……」
「僕は彼女に結婚を申し込みたいと思ってる。でもあの時みたいに、実は好かれてるなんて全部自分の自惚れで、また振られたらどうしようって思ってしまう僕がいるんだ。格好悪いけど…」
良太の葛藤と逡巡を、痛いほど感じる。同じではないけれど、同じような迷いを、千鶴は知っている。
「その彼女さんって、一つ下の同じ委員会だった子?」
良太が驚いたように目を見開いた。
「あ、知ってたんだ。千鶴から振られて落ち込んでたら、そんなの先輩らしくないです!って慰めてくれて…。その明るさに惹かれて好きになった」
千鶴と別れてから半年くらい経って、良太に彼女ができたと噂で聞いた。渡り廊下で見かけた、ひとつ後輩の可愛いあの子と。
落ち着いたと思っていた恋心は、その噂ひとつでまた千鶴の心をかき乱した。たった半年で気持ちなんて切り変えられる。
変わらない気持ちなんてないのだと。
良太を、何よりも自分自身を信用できなかった千鶴が全部悪いことはわかっているのに、変わらないものなんてないのだと、勝手に密かに失望していた。
でも、それとこれとは関係ない。千鶴がきちんと良太に理由を告げずに別れを切り出して傷付けてしまったことは、全て千鶴の責任だ。
「良太くんの自惚れなんかじゃなかったよ。ちゃんと好きだった」
「それなら、どうして」
「好きだから、一緒にいるのがつらくなった。いつか心変わりされて振られてしまう前に、あの時以上に自分の気持ちが大きくなる前に逃げ出した方が楽だと思ったの…。だから良太くんに原因なんて、ひとつも無かったよ」
改めて言葉にすると、本当に身勝手な話だと思った。
良太が顔を顰めて、腑に落ちないと言いたげな表情をした。
好きだから、もっと好きになる前に別れる。誰に話してもきっと理解してもらえないとわかってるし、千鶴だって自分で言いながら、ばかみたいな話だなと思う。
「それは、本当?」
「もう、嘘はつかないよ」
理解はしてもらえなくても、わかってもらいたい。あの時は見ることができなかったけれど、今度こそ良太の目をしっかりと見つめ返す。
僅かに眉間に寄っていた皺がほぐれて、良太が緩く笑んだ。
「わかった。よくわかんないけど、今の千鶴が嘘をついてない事はわかった。そして僕は悪くなかったってこともわかった」
「うん、ごめんね。ありがとう」
ふっと息をついて、頬杖をついた良太が懐かしそうに呟いた。
「変わってないね、そういうところは」
「ん?」
「いや…。千鶴は、今恋人はいないの?」
孕んでいた緊張感は完全に溶けてなくなった気配がした。
ぬるくなったコーヒーを半分飲んで、千鶴も気持ちを切り変える。
「いるよ。結婚を前提に、一緒に暮らしてるところ」
「その人には大丈夫なの?逃げたい気持ちにはならない?」
そう問われて、自分でも驚くほどするりと言葉が出た。
「ならない。まだ少し恐いけど、彼のことも自分のことも信じられる私になりたいって思ってる」
樹のおかげで、そう思える自分に変わってきている。
「そっか。そう思えるくらい好きになれる人に出逢えたってことか。ま、僕も負けないくらい幸せになる予定だけどね」
コーヒーを飲み干すまでの間、高校卒業後の同級生の話や、良太が県外への転勤を期にプロポーズをして、おそらくもう地元には帰らないだろうという話をした。
きっとこの先偶然会うことなんてないだろうから、今日話をすることができて本当によかったと言って彼は笑った。
店外に出て、最後のあいさつを交わす。
「じゃあ、元気で。幸せになってね、千鶴」
手を差し出され、握り返した。握った良太の右手が全然自分と馴染まなくて、考えるまでもなく思い浮かべた愛しい人に、早く会いたくなった。
すっと違和感なく馴染んで合わさる、その手の持ち主に。
「私も、良太くんと話せて本当によかった。彼女さんとお幸せに」
相手の気持ちから、そして自分の気持ちから中途半端に逃げ出したあの時の千鶴と、やっと向き合えた気がした。
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